中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(21)

無残な敗北だった。
15歳の秋に淡路島から脱出し、完全独立の道を押し進んで来た。仕事も自分で探し、
住み込み店員と言う辛い立場の仕事にも耐えてきた。仕事も熱心に覚えた。
しかし、私の人生はこんな仕事をするためじゃない・・・と、どこかで思っていたために、
新しい出口を求め続けていたのだった。そして、それが2歳の時に分かれたままになっていた
母探しであり、その母を探し当てた時から「高校進学」という夢を果たして新しい人生へと進む
つもりであった。
義父は優しい人であったが、その頃の私はどうしても馴染めなかった。その上、母が義父に
気を使っている様を見るのが嫌だった。所詮は邪魔者なのではないかと思った。高校進学の
話も途絶え、日本輸送機(株)への就職が決まった時に、自分が望んでいた方向とは違うように
思えた。
 
ここからも脱出しよう。そう思って誘われ、勧められ、推薦を受けて牧師への道を選んで神学校へと
進学した。進学と言う意味では、私の目的を達した。アカシアに囲まれた武蔵野の広いキャンパスで
過ごし、日曜日には都内のあちこちの教会で手伝った。都内の各所を散策し、東京と言う土地の
地図も分かってきて、夢が広がっていくような気がしていた。
しかし、現実はその夢を許さなかった。学費資金を全くと言ってよいほど持たない私には、これ以上の
学生生活をすることはかなわなかった。
 
そして生まれ故郷の大阪に戻り、ここからやり直そうと心に決めて、過酷な野宿生活をしながら
仕事を探したのだったが、持ち金が底をついてくるし、日に日に体調が悪化してきた。
本来私は丈夫な方ではない。4歳(だったと思う)の頃には、腸チフスという伝染病にかかって
死にそうになった。「肛門が開いた」ので死んだと思われたようだ。その時に肛門が開いたという
状態は、実は今も私を悩ませているが詳しい話は避けよう。
 
物心ついた時には、身体中に湿疹が広がっていた。今ならアレルギーによるアトピーだと言われる
のだろう。今も鼻の側に残る顔の傷は、幼い頃に自分でかきむしったためだと、母と再会してから
聞かされた。この全身に広がる湿疹は、どれほど私を苦しめたことだろう。湿疹があるために
風呂も最後に入るように言われたが、6人も7人も入った後の風呂はバイ菌の温床だったかもしれない。
だから、湿疹はひどくなるばかりで、身体中のあちこちが化膿し、膿が出て肌着にくっつき、はがす時には
痛くて血が出た。その繰り返しで、どんどんひどい症状となり、小学校の体育の時間にズボンを脱ぐのが
恥ずかしく、教師に休ませて下さいと言うと、教師は他の生徒がいる前で、私にズボンを脱がせた。
私のひどい湿疹がクラスのみんなに知れると、次の日からいじめが始まった。想い出しても悔しい
いじめが続いた。最も辛かったのは、膝の後ろ側と両太ももの湿疹だった。太ももの湿疹は、分厚い
かさぶたを形成していて捲ると膿と体液が噴き出してくる。体液はズボンまで沁み込むのでズボンと
くっついてしまう。旧約聖書に「ヨブ記」というのがあるが、それを読んだ時に私と一緒だと思ったほどだった。
 
15歳の秋に神戸に脱出した時も、大阪に仕事を変えた時にも、この湿疹はまだ大きく残っていて、
私を苦しめた。大衆浴場しかないこの時代に、風呂に行くのが恥ずかしかった。
小、中学生の頃よりは良くなってはいたが、治った後は、他の部分と違って皮膚が白くなっており
違和感があった。
膝関節の裏と両太ももは、40歳を超えるころになってようやく違和感のない皮膚に見えるようになった。
 
アレルギー体質は、風邪をひきやすく、冬になると青い鼻汁を垂れ流していた。服の袖はその鼻汁で
光っていた。そればかりではなく、いつの間にか中耳炎になっており、右耳からは膿がでていて、耳には
脱脂綿を詰めていたので、右耳は完全に聞こえなかった。
そのような身体で、毎日朝早くから田んぼに行き、草を刈り、牛の餌を作り、学校から帰ると田んぼに出て
農作業をしていたものだ。もし両親がいて、今の時代なら過保護に育てられていたかもしれない。
過保護に育てられていたら、多分だめな人間になっていただろうと思う。そう言う意味では、結果オーライ
と、喜ぶしかないが、ひどい湿疹がどれだけ私を苦しめたかは、なった人しか理解できない苦しみだった。
 
本来、丈夫ではない私の身体を、農作業や日々の労働で鍛え上げてきたのだが、1か月間以上に
及ぶ、野宿と栄養失調と過労で、すでに限界を超えていた。
最後の金を使って、私は2度と帰ることはないと決別したはずの淡路島の祖父母の家に戻ったのだった。
そこには・・・・知らない人がいた。