阪神タイガースの連勝が遂に止まってしまった。
巨人も負けて首位は守れたがこれからのことが心配になってくる。
やはり、もう一人優れた投手が欲しいものだ。
やはり、もう二人優れたバッターが欲しいものだ。
こんな事を言ってみても仕方がない。現状の選手たちが頑張るしかない。
最近は雨の中の試合が多く、延長戦も多く選手たちは疲れていることだろうと思う。
気を取り戻して連敗しないようにがんばれ!!
阪神タイガースの連勝が遂に止まってしまった。
巨人も負けて首位は守れたがこれからのことが心配になってくる。
やはり、もう一人優れた投手が欲しいものだ。
やはり、もう二人優れたバッターが欲しいものだ。
こんな事を言ってみても仕方がない。現状の選手たちが頑張るしかない。
最近は雨の中の試合が多く、延長戦も多く選手たちは疲れていることだろうと思う。
気を取り戻して連敗しないようにがんばれ!!
お騒がせしました。
タブレットの画面が突然に暗くなって慌ててしまいました。 冷静に考えてちゃんと設定画面を手に入れて、明るく設定し直しました。ついでに使いやすいようにいろいろと設定のし直しも済ませました。
あまりにも突然で画面がほとんど見えなくなったので慌ててしまいました。
パソコンなら慣れているので慌てないのですが、タブレットでの異常は初めての体験で慌ててしまいました。
私は(寝たきり)の経験があったので3年前に免許証を返納しましたが、最近感じることは助手席に乗っていて、以前のような状況の判断力がなくなっているなと思います。免許証を返納しておいて良かったなと思うのです。 注意力、予測力、判断力などがすべて衰えて来ているのに気づきます。
まあ、仕方のないことだと思っておりますが、歳は取りたくないものですね。
今夜、神戸国際会館で行われているチューリップの歌を次々と聞いている途中で、なにかに触ってしまったのか、突然に画面が薄暗くなってしまって困っています。
今キッチン蛍光灯の下でやっと入力しています。
設定画面も見辛くて大変です。高齢になると、こう言うときに機転がきかないものです。
今夜は筑前煮をたくさん作りましたので、しばらくは食べ続けます。前回がとても上手にできたので調子に乗ってたくさん食材を入れすぎてしまいましたので前回の出来栄えに比べると駄目ですが、、、。
もも肉2枚、レンコン、ごぼう、小芋、筍、こんにゃく、人参。
★ トマトスープ
★ ポテトサラダ
たくさん食べてお腹いっぱいになりました。
午前中にシャワーを浴びる際に計量すると51キロになっていました。昨夜の6時過ぎに夕食を摂ってから17時間目の計量ですから、1ヶ月前よりも1キロ以上増えているのでしょう。
痛い体だけれどもなんとか凌いで頑張っています。画面の暗さに難儀しながら入力しました。
《両陛下から御所での「お茶会」に招待される》
第40回海外日系人大会に参加し、様々な経験をさせてもらったが、最終日の夜に大会関係者から、代表者の中から15名が御所での「お茶会」に招待される旨の連絡があり、私もその中に選ばれていた。平服でよいとのことだった。
翌日午前10時ホテルに迎えに来た小型バスに乗って皇居に向かう。代表者の一人がつぶやくようにこう言った。「不思議だなぁ、70年安保の時には、毎日毎日、総理官邸の前をデモしていたんだけれどガードが固くってどうにもならなかった。それが、昨日、何のチェックもなく総理官邸に入れたし、今日はこうして皇居に入れるんだから、時間の経過というものは不思議だな~」と。
バスは何のチェックも受けることなく門をくぐり皇居内へと入っていく。皇居の中の庭を縫うようにして進む。思いのほか広大だった。皇居の石垣はこれまでは外側から眺めていたものだが、内側から見るとそれほど美しいものではないことを始めてしった。皇居内を縫うようにバスが走るので、皇后陛下が大切にされている養蚕場などいろんなところを通りすがりに見ることができた。
皇居は、宮殿と御所に分かれている。宮殿の部分は皇居正面に近いので外からでも遠望できるが、お住まいである「御所」は宮殿を通りすぎてかなり奥に位置している両陛下のプライベートな部分でもある。
御所に到着する前に外務省の担当者から注意事項の説明が行われた。カメラはバスの中に残すようにと指示される。
そして「本日は、両陛下の特別なお計らいで、このような機会を設けることができました。今日は両陛下から握手を受けることができますが、日本人の場合は、内閣総理大臣と言えども両陛下とは握手ができないしきたりになっています。皆さんは外国からこられたと言うことで、外国人扱いとして握手をしていただけますので、そのおつもりでいてください」と申し渡され、みんなに緊張が走った。担当者に「ニュースでは慰問などにいかれた皇后さまが握手をなさっているように見受けられますが」という質問に担当者は「慰問の場合は握手はされておりません。優しく手を握っておあげになっているだけなのです」との説明があった。
《両陛下と固い》握手を交わす
平屋造りの御所の玄関を入ると両陛下がお出迎えくださった。天皇陛下と握手を交わし、次いで皇后陛下と握手を交わす段になって私は戸惑った。力を入れずにそっと触れるように手を差し出したところ、美智子皇后はぐっと力強く握りしめてくださったので、私も力を込めて握り返した。羽二重もちを握りしめたような感触を味わった。
通された部屋は、時折TVなどで映される客を迎えるための部屋で天井の高い、格式のある雰囲気の部屋だがそれほど広くはなく、ゆったりとした空間だった。
両陛下は、参加者全員とそれぞれに二言三言、言葉を交わした後、別々に場所にお立ちになった。我々も自然と二組に分かれ、天皇、皇后それぞれを囲むようにしてお話しては自由に入れ替わりながら何度も天皇陛下と皇后陛下とお話しする機会を得た。
《自由な雰囲気の中での会話》
両陛下も、私たちもガラスコップを手に持ち、お茶を飲みながら懇談するという、信じられない時が1時間の予定を超えて与えられたことは、私の波瀾に富んだ人生の中でも特筆なものとなった。
両陛下との懇談の中で感じた事は、記憶力の凄さであった。各国代表との会話の中で、次々に質問を浴びせられる。とても事前に用意しておけるようなものではない話題だけに、参加者一同が驚嘆していた。また、美智子皇后は、想像以上にお優しく、とても言葉に表せない感動を受けた。
皇后陛下と二人きりになったときに、その年にインドで行われた「国際児童書会議」へのご参加を体調がすぐれないためにお取りやめになり、その代わりとして、開会式へのお言葉をビデオで寄せられたことについて触れ、「ビデオを拝見しましたが、素晴らしいメッセージございましたね」と申し上げると「慣れない事をいたしまして、恥ずかしゅうございます」と、身を屈めておっしゃった謙虚なお姿は今も私の目に焼き付いて離れない。
参加者たちと両陛下との会話はそれぞれ興味深いものだった。両陛下は各国の事情にとても理解が深いことを強く感じ取ったものだ。あまりにも拙い表現だが一言で言い表すと「さすが日本国の象徴」と感服するほかなかった。
両陛下と参加者たちとの会話の一部始終を書きたいがそれは省き、この会合がいかに和やかだったかを表すエピソードを少々紹介しておこう。
パラグアイ代表が「陛下、パラグアイには美人が沢山おりますので、ぜひパラグアイにお出ましください」と言った時には、いつもすばやく対応される陛下が一瞬何もおっしゃらず、ニコッとされただけだった。季刊・海外日系人という雑誌には、第40回大会の模様が詳しく報じられている。私の発言や寄稿文も掲載されているし、御所での写真も掲載されている。その写真がとても恥ずかしい。陛下のすぐ後ろで私がグラスを傾けているのが写っているからだ。
天皇陛下と皇后陛下が少し離れてお立ちになり、参加者は数名ずつ両陛下を囲む形で
懇談することができた。天皇陛下を囲む輪に入って順次にお話しを交わし、次いで皇后を囲む輪に入ってお話を交わすということを数度繰り返した。
《パースの話題で盛り上がる》
両陛下が並んでおられるときに交わした会話を少しだけ再現してみよう。
参加者各自の胸には名札が付けられていた。私の場合は準備した外務省が間違えたのか「豪州・シドニー」書かれた下に氏名が記されていた。
皇后陛下が私にシドニーから来られたのですねと問われるので、いいえパースから参りましたとお答えすると「そうですか、パースはとても美しいところでした。今もはっきりと覚えています。パースの総領事は鹿野谷ですね」と即座におっしゃったのには驚いた。
いちいち全世界の総領事の名前を暗記されているわけではないだろうからと、皇后陛下の即座の言葉に驚いていると「ピアスさんもお元気でいらっしゃいますか」と質問され、ピアスさんの当時の現状などをご説明すると、皇太子妃としてパースに行かれた当時のことをこと細かくお話になった。その時、天皇陛下が話に割ってはいられ、「あの時、私はフリーマントルに行っていたので、パースについては皇后ほど詳しく知らないのですが皇后はとても気に入られそうだ」と仰った。皇后さまは、まるで昨日のことのようにパースの思い出を語られたのがうれしかった。
自由にしてよろしいですよと言われていたので、私は大きなガラス戸を開けて昭和天皇が大切にされていたというお庭にでて歩いてみた。昭和天皇は「雑草いう名の草はない」という名言を残されているほど庭に生えている草々を大切にされていたようで、その場所に立って、そのお言葉をかみしめながらしばらく散策をしたが、私のほかには庭に出る人はいなかった。
予定時間が大幅に過ぎ、外務省の担当者に促されるように帰路についてが、両陛下は玄関までお見送りくださり、一人一人に丁寧に固い握手を交わされた。
今日は(シーアに買物に行こうカー)でした。
とても良いお天気で車内は暑いほどでした。
妻に頼まれたライオンの歯磨きなどを探すのに手間取り、帰りの時間に5分遅れになって他の方々に迷惑をかけてしまいました。
店内で(出汁の素)はどこに売っていますかと若い定員に尋ねたのですが分からず、あっちこっちに連れられて時間を食ってしまいました。通路の表示の仕方にも問題があるように思います。
かなり慣れてきていますが、未だにウロウロしている有り様です。
遅刻しているので所定の場所までカートを押して私なりに精一杯のスピードで歩きました、、ああ大変、、。
でも、ドライバーの山田さんは「急がなくとも大丈夫ですよ、他の方たちも優しい人たちですから」と慰めてくださる。
帰宅して買物を所定の場所に収めるのに一苦労。
介護ケアの事務所から、私が要支援2に変更になったことで契約書を取り交わして続くに来られる。
彼は、私が寝たっきりになった折に身体を拭いていただいたり、シャワーに入れるようになってからはシャワー介助をしていただいた方で、私の身体を知っている方でもある。
要介護4から要支援2になったという例はあまりないのです。それだけ中原さんがよく頑張ってきたということでもあるのですと励まされる。
なるほど、そういう考え方もあるのかと、この3年間を振り返ってみて、死か生かの中で踏ん張ってきた自分を褒めることにしました。
昨日、家族ラインで「コメがなくなったのでアマゾンで買ったが不味い米だった」とボヤいていたら、長女が仕事で淡路島に行っていた孫に美味しい米とイチゴとトマトを「おじいちゃんに届けて」と渡してくれた。孫がわざわざ持ってきてくれる(先日、甲子園へ連れて行ってくれた孫だ)。
今月末に子供が産まれる。無痛分娩で日も決まっているらしい。
お父さんになる心構えは出来ているかと訊くと
「全然」と言っていました。 赤ちゃんが産まれると自然に親父らしい気分になってくるだろうと思っています。
曾孫が4人になる日が近い。
今夜の食事は昨日から決めていました。
身体を休めたいから簡単なものでいいかと妻に了解を取っておいたので、ラクチンでした。
妻が気を利かせて焼きメスを作ってくれました。
★ 高菜の焼き飯(妻が作ってくれました)
★ 鶏ももの唐揚げ
★ 自慢のポテトサラダ
美味しく口当たりが良いので、あっと言う間にポテサラを食べてから食事を始めるみたいな感じになってしまいます。
シーアの唐揚げは、ちょっと飽きてきたみたいですので、次回は他のものを探そうと思います。
思い出したので数年前にさかのぼってかくことといたします。なにしろ私にとって記念すべき出来事でもあるのですから。
《第40回・海外日系人大会に参加する》
1999年5月12、13、14日の三日間、東京の九段会館において、世界各国から約250名の日系人が参加して開催された。
オーストラリアからの参加者は9名(シドニーから5名,パースから4名)であった。毎回シドニーの保坂氏が参加されていたのだが、私が全豪日本クラブの会長という立場もあり急遽参加することにしたのだった。
大会を主催するのは、財団法人海外日系人協会という外務省の外郭団体であり、外務省OBがその多くを占めている。後援は、東京都,全国知事会,国際協力事業団,国際交流基金,経済団体連合会、日本商工会議所、日本貿易振興会,国際観光振興会であり、すべてお役所的団体である。
《熱のこもった討議の代表者会議》
第1日目は代表者会議だった。ブラジル,アルゼンチン,ペルー、ウルグアイ,コロンビア,ベネズエラ,パラグアイ、アメリカ(7地域),カナダ、メキシコ、フイリピン,マレーシア,韓国、オーストラリアの中から35名が代表者として選ばれた。代表者以外の参加者もオブザーバーとして参加している。
全員が自費負担参加だから、誰はばかる事もなく発言でき、中には主催者(政府側)の気に食わぬ発言もあって、官僚が気色ばみ、緊張が走る場面もしばしばであった。
参加者の中には、観光を兼ねている人も少なくないが、私のように、とんぼ返りでの参加者もかなりいたし、地球の反対側からこの大会のために帰国したことで参加者の意欲のほどが伺えると思う。その熱意だけでも、ただの大会ではなかった。
九段会館会議室で5月12日午前10時から代表者会議が行われた。立派な会議室には、ロの字型にテーブルが配置され、その一方に主催者側の(財)海外日系人協会の柳谷理事長以下理事4名,外務省からは移住政策課福川課長、国際協力事業団からは移住企画調査課小松課長などが列席された。
自己紹介と各国の事情説明が行われた。この発表の中で、各国の事情を窺い知ることが出来たし、それぞれの国において違った問題を抱えている事が理解できた事は大きい。
会議室には、オブザーバーの席も多数(150席ぐらい)用意されていた。
大会の本題は「転換期の海外日系人社会」であり、(1)進む世代交代(2)日系社会を維持発展させるために(3)日本との絆の一層の強化を求めてだった。
国策として約130年前から移民として他国に移り住み、数々の困難の中で今日の日系人社会の評価を築き上げてきた歴史を顧みるときに、これらの問題は重要なものである。
外国にあって、いかに日本人としてのアイデンティティを確立するかと言う問題であった。日本人としてのアイデンティティの確立のためには、日本語による日本文化の理解が欠かせず、南米諸国では第2言語として日本語よりも英語を重視する傾向がある中で、いかに日本語教育を進めて行くかが大きなテーマとなった。
日本人は、他の国の人達以上に現地に同化しやすい人種だと各国からの参加者たちから指摘があった。中国人などは世界中に住んでいるが、日本人ほど現地に同化していないらしい。現地に同化するということは悪い事ではなく、その国に様々な貢献をしていて評価されるべきことである。だが、外国から、祖国を支えるという意味では希薄になっているという指摘があった。言いかえれば、愛国心が希薄なのかもしれないが、祖国が移民を棄民扱いして来たことと無関係ではない。会議の内容はあまりにも多岐にわたっているので省略する。
第1日目の締めくくりはグランドパレスホテルに移動して開かれた「海外日系人協会理事長主催」の歓迎レセプションだった。政府や国会議員も多数参加した。
第2日目の代表者会議は予定を早めて開始される熱心さであった。正午までに、前日の内容をまとめ「政府に対する要望書」を仕上げなければならないため充分な討議が出来ないまま「要望書案」を取りまとめる。主催者側の意見もあり、要望書がうまくまとめられないという一面があったのは残念である。
《天皇、皇后両陛下ご臨席の下の式典》
午後1時半から、九段会館ホールにおいて全体会議が開かれた。入り口には空港などで見られる金属探知機が2台設置され、チェックを受けての入場である。
全体会議は「要望書案」が読み上げられ、それを全体会議で了承すると言った形式だけのものである。質疑応答の場も設けられていないのは日程が混み合っているからだろうが不満を抱く参加者 もいたに違いない。
午後3時40分、天皇、皇后両陛下をお迎えして式典が開催される。両陛下のご臨席は、この大会が始まってから40回目で初めてのことだそうである。
私はオルコット美砂子さんとともに最前列に座った。ステージ上の両陛下がお座りになった側だったために両陛下の正面となった。約10メートル先の両陛下を前にして緊張している自分を感じた。私の生まれた時代の影響なのか、それとも両陛下の持っている雰囲気がそうさせたのかはわからない。わたしはどれほど偉い人に会っても緊張しないのだが10メートルを隔てているにもかかわらず緊張した。
《総理官邸へ行く》
式典終了後、バスに分乗して総理官邸へ行き「総理主催レセプション」に出席する。野中官房長官も同席される。小渕総理の挨拶はユーモアを交えた楽しいもので会場の雰囲気をほぐし、一同、美味しい料理に舌鼓をうった。
第3日目のスケジュールは、10時からバスに分乗して皇居の特別参観をし、正午からは憲政記念館における衆参両院議長主催のレセプションに参加、靖国神社に自由参拝し、NHK見学、夜は東京都知事主催のレセプションに出席してすべての日程が終了する予定で、その夜の石原都知事主催レセプションで、参加者を代表して私が挨拶することになっていた。
《外務省での会議に出席》
ところが、急に外務省での会議にお出席を求められ、代表者の中から15名が指名されて出席した。とても広い円卓の会議室で、私にとっては初めての体験と言ってよい会議場だった。
代表者と外務省の大使経験者10名による会議だった。この会議が盛り上がり予定を大幅にオーバーしたために、都知事主催のレセプションの開会に間に合わず、代表者挨拶ができなかった。1か月前に石原知事が当選したばかりだっただけに、親しく話す機会を失ったのが残念だった。
レセプションが終わった後、外務省から明日、皇居内御所でのお茶会に招待される旨の連絡を受けて驚く。
外務省での会議に参加した人たちが御所に招かれたようだ。40回の大会の歴史の中で初めてのことだと告げられる。