中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(112)私を守ってくれたのはだれなのか

命をかけて仕事をする。命をかけて生徒を愛する。いつも私の言ってきた言葉ですが、岸本先生はそれを実践しています。

この愛があれば、暴力はいりません。 冷凍された種を解凍することが出来るのは、この愛なのです。 愛は必ず人の心を開きます。 愛は人を育てるのです。

 神戸暁星学園を立ち上げるまでの大変な日々も、学校が出来てからの生徒とのかかわりも、思い返せば楽しい日々でした。

 管理主義教育にならないようにと、教師たちを教育するのが大変でもありました。

当時の中学校の一クラスは45人ほどでした。 その中の数人は高校進学の道が閉ざされた時代だった。 就職難の時代でもあって、高校進学できないと、邪魔者扱いされる時代でもあった。

 彼らに責任はないのに、落ちこぼれと見捨てられている現状を黙ってみておれなかった。

私は、やんちゃと言われる生徒も含めて、だれもに「可能性」があることを信じていたし、それを私のやり方で証明して見せたかった。

 我慢強く私を信じてついてきてくださった教師たちと一緒に、多くの生徒を世に送り出すことが出来たことはとても幸甚でした。

 50歳からは世のため人のために生きると決心したことを、実行しながら生き続けているのです。

 神戸暁星学園は、阪神淡路大震災によって、須磨校舎が炎上し、兵庫校舎が傾き、廃校を余儀なくされたのだったが、あの時代の、あの局面に大いに役立ったと自負しています。

また、一般法人が通信制と連携できる糸口を開けたことで、その後に高校進学の受け皿となる学校が一気に増えたことも先駆者としての誇りを感じています。

          《最大の難事が発生も生徒を守る》

今回で学校創立についての大まかな話は終わりますが、神戸暁星学園での最大の難事を書いておきましょう。 

毎年一年生の一学期末にキャンプを行います。 そして毎年のように大きな問題が起こります。 教員たちの中には、問題が起こる時期にキャンプをしないでほしいという要望もあります。 しかし、問題が起こることを承知のうえで敢えて続けてきました。 

キャンプが終わり、夏休みがおわり、二学期に入る頃になると新入生たちが一段と成長している姿を見ることが出来るからです。

 ところが、ある年のこと、あまりにも予想外の事件が起こってしまったのです。

毎年お願いしている観光バス会社のバス数台に乗ってキャンプ地へ行く途中で、その内の一台のバス内で問題が起こりました。 詳しい経緯は省きますが、キャンプ地についた時には、そのバスのすべてのシートがカッターナイフで切り取られてバスの外に捨てられていました。 窓のカーテンも切り裂かれて捨てられていました。 

すべて一人の生徒がやったことでした。 

騒動を大きくしてはバスの運転にも差しさわりがあるといけないからと教師の制止も控えめだったようです。 もちろんカッターナイフを振り回している生徒をそれ以上に刺激しないようにという思いが教師にあったようです。

バスが目的地に着いたところから、この問題は大きくなっていきました。

直ぐにバス会社から電話があり、事の次第を告げられたうえ、「こんなことはわが社が始まって以来、初めてのことです。 三日後の帰路のためのバスを差し向けるわけにはいきませんからご承知おきください」とのことだった。

さっそく出向いてお詫びするとともに、弁償の見積もりをお願いし、三日後の復路のバスを出してくださるようにと、伏してお願いして了承された。 バス会社との交渉は難航したが、事情を説明して了承していただいたことは感謝だった。

みなさんに知っていただきたいのは、その後のことなのです。 キャンプ地では事件を起こした生徒に対して特別な処分をせず(ご家族に学校に来ていただいて説明をし、弁償についても了解を得ていた)帰路もこの生徒はバスに乗った。

彼は往路の暴挙でバス内のボスになった気分でいたらしい。 復路のバス内でもボスぶりを強調すべく、他の生徒にたいして「その席をどけ」と命じたりしていたが、ある生徒に「そこをどけ」と言ったときに、座っていた生徒が「なんでお前に言われなきゃいかんねん」と言い返したそうだ。

言い返した生徒は小柄で弱々しく普段もおとなしい生徒だった。 その瞬間、文字通りその瞬間にバス内の雰囲気ががらりと変わってしまった。 

それまで、ボスのようにふるまっていた生徒は、その瞬間におとなしくなって、自席に戻り、その後も嘘のようにおとなしい生徒になってしまった。

それを目撃した教師は生徒指導タイプの人ではなく、気弱なタイプの人だったが「本当に猿山のボスの交代劇を見ているようでした」という。 だが、この場合、抵抗した生徒が変わってボスになったわけじゃない。 彼が勇気をもって抵抗しただけなのだが、一瞬に事態が変わったということらしい。

本人にもご家族ともよく話し合ったが、その時の彼はすでに反省を繰り返しているようだった。

退学にすべき行動だが、ここで彼を退学処分にしては、彼の人生に大きな影響を与えてしまう。

充分に反省しているようだし、他の生徒たちからも大きな非難も聞こえない。そのご彼はごく普通の生徒となって卒業したことは言うまでもない。

 毎日のように大きな問題と向き合って過ごしたころが懐かしい。

89爺ィの愉しむ料理(140)

 今日もちらちら大相撲を観ながら夕食の準備。

尊富士(たけるふじ)が新入幕でなんと負けなしの9勝目をあげました。明日は一敗の大の里との取り組みが決まっています。面白いですよ。

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 今夜は、大根と白菜とマグロ缶での煮込みです。

 大根は下茹でをし、キャベツの白い部分はフライ 

 パンで炒めてから鍋に入れました。

 狙いは、白菜と大根のトロトロ煮です。

 上手にトロトロ2が出来ました。

 新玉ねぎのレンチンした物も出しましたが、

 少し硬いと妻からクレームが出ました。

 2個で5分は少し短かったようです、6分が良かっ

 たかも。

 

高齢夫婦の日々あれこれ(12)

 予想していたよりも温かい1日だった。

出戻り理学療法士さんは、明日の通院のこともあり今日は無理しない程度の散歩にしましょうと妻を外に連れ出した。

 私は洗濯物を取り入れ、干して、また取り入れる。室内の観葉植物たちに水やりをする…ベランダの鉢類煮物水やりする。

 随筆の手直しなどを一週間分してから、座ってゆっくり相撲を見ることもなく夕食の準備と、いろいろと忙しい。

 夕食が終わって介護ベッドに横になってこうして書いています。

 寝たきりになったときに、ベッドで上向きで入力し始めてから、今もそのスタイルで入力を続けているのです。

 入力が終わると、私は水泳大会の録画を見る予定です。

随筆自伝(111)私を守ってくれたのはだれなのか

        《この学校を作ってよかったと思えること》

 私たちの学校の教師は、暴力を使うことなくして生徒と交わり、生徒は心を開いて教師と交わってきました。 私たちの学校の教師による暴力が皆無だったとは言えません。開校してからの八年間で、多くの生徒が卒業し、今では600名の生徒が在籍しています。

 そのなかで、これまでに三度、教師による暴力があったと報告されており、そのたびに生徒に謝罪をさせ、辞職してもらいました。この三度も、指導と称する一方的暴力ではなく、生徒の攻撃から身を守る際のものであったと承知しています。いずれにせよ、私は暴力を絶対に認めません。暴力を使わなくても教育はできるからです。私たちの学校へ入学した生徒のうち、暴力的行為をする生徒はかなりの数にのぼります。そして、かれらは例外なく、 親や先生から強い暴力を受けて育っているのです。   暴力は新たな暴力を生むだけです。 暴力におびえ、処罰におびえておとなしくなった生徒を見て、教育的効果があったと考える教師は、力量のない教師ではないでしょうか。

世間には、暴力を振うことによって教育的効果があったと主張する多くの教師が存在します。そして それを「愛の鞭」と称しています。

それが間違いだということをその人たちは認めようとしないでしょう。それを認めることは、自分の能力がないことを認める結果になるからです。生徒に対して、どんな 理由があるにせよ、暴力を振るうことは断じてあってはならないことです。

教師の側に能力があれば、 暴力を使うことなく生徒に向かいあえる能力を教師の側が持たなければなりません。暴力否定の話になってしまいましたが、もう一度話を戻しましょう。

多くの教師が、それぞれに特徴を持ち、大きな愛を持って生徒を包んでいます。私が、一人の教師について書こうとすれば、すべての教師について書かねばならないほどです。これまでにも私の学園の教師について、折にふれて書いてきましたが、最後に、文字通りの献身的な人たちをここで紹介したいと思います。

       《献身的な教師たち》

長田校舎の予科には、何らかのハンディキャップを持つ生徒たちがいます。

長田校舎が、ハンディを持つ生徒たちのための校舎になって二年目から、藤井峯子先生は主任として今日まで支えてくださっています。

彼女はその経験から、長田校舎にいる教師たちにハンディを持つ生徒たちに対する教育のあり方、心構えなどを丁寧に教え、一人の生徒をもこぼしてしまわないように気配りをして下さっています。

そのストレスが大きすぎたのか、二年連続で大手術を受けたのです。一度は開腹手術、もう一度もそれ以上の手術でした。しかし、彼女は二度とも夏休みを利用し、生徒やほかの生徒に迷惑がかからないように配慮されたのです。

二度とも、なるべく早く手術をした方がいいということが明らかであったのに、自分の身を守る以上に生徒たちのことを心配されたのです。しかも「決して大げさにしないで」と言い、他の教師もほとんど知らないうちに現場に復帰されたのです。

入院前には、  「私に万一のことがあったらいけないので、その時は」と、後々のことを心配され、入院直前の夏休み期間中にも学校へ来て、後を任せる中井里子先生にさまざまな申し送りをされたのです。 その中井先生も、NHKの放送のあった直後、ご自分の長男の進路のことで相談にこられ、息子の入学と同時に長田校の予科へ教師として来ていただいた方です。

もう一人、岸本昌之について書いておきたいと思います。 彼は私の学校へ来て三年になります。始めてきた時からかれは週二回の人工透析を受けていました。

私は、週に二回の人工透析がどれほど大変なものかを知っていましたので、この学校のようなハードは仕事をとても彼がやれるとは思えなかったのです。

小柄で、声も小さい先生です。授業があまり好きでない生徒たちは、時に授業を妨害するような行為 もします。 体力のある先生でも「しんどい」 を連発するほど、体力的にも精神的にもハードな職場です。 しかし、多くの応募者のなかから彼を選んでしまっていました。 何かを彼のなかに感じたのです。

週二回の透析は、週三回に増えました。普通なら入院してしまうほどの状態です。それでも彼はがんばりました。ある日、生徒が 「岸本先生が三階の廊下で倒れている」と言ってきました。 急いでかけ上がり、彼を起こそうと抱きかかえた私は 「ハッ!」としたのです。 ウソのように軽かったのです。信じられないほど軽かったのです。 私は今でもその時の感触を覚えています。そして、教頭に彼の仕事がハードにならないように、特別に頼んだほどです。 そのようななかにあっても、教材研究には誰にも負けないほど熱心でした。彼の授業の時は、ふだんやんちゃな生徒も比較的静かに授業に参加しているのです。彼の静かな気迫を感じるのでしょうか。 今年、彼は入院して手術を受け、先日退院しました。そして、彼は私に一通の手紙を寄こしてくれたのです。原文を紹介します。

【暑中お見舞い申し上げます。 先月六月十七日から入院し、七月十一日には退院。約一カ月勝手をしまして、すみません。病名は腎臓癌で六月二十六日には右腎摘出の手術を受けました。原因の一つは、人工透析をする時に使用している薬(ヘパリン=血液が固まるのを防ぎ、血液がスムーズに流れるようになる薬)が、副作用を起 こして発癌しました。 癌は腎臓の中に二つありました(手術の時には、進行して三つになっていました)  最初は病院側と話をして、夏休みに入ってから手術をしてくれるように言いましたが、病院の方は病気が病気なので早くした方がいいということで、六月二十日に入院して、二十六日に手術と言われ、入院する六月二十日まで、授業と期末試験などの準備をし、校長先生と先生方のおかげで安心して入院ができました。入院は病院(外科)側の都合で三日早くなり、六月十七日に透析をしてそのまま入院しました。

その前に生徒たちのことが気になり、授業中に「身体の中にでき物ができて、それをとるので手術をする。授業は代わりの先生が来られるので、授業は心配しなくてもいい」と生徒たちには説明しましたが、一部の生徒が勘違いをして、私が退職すると思っていたので、その生徒たちにも詳しく説明しました。生徒には必ず二学期には復帰すると約束をしました。

入院してからの五日間は、ずっと検査の毎日で、五日目に外科の先生から告知がありました。悪性腎臓癌なので右側の腎臓を全部摘出する方がいいと言われて、同意しました。透析の主治医(内科)は、 私には病名を伏せて、親には病名を連絡しました。親は主治医に本人に告知して下さいと言ったらしいのですが、主治医は告知せず、外科の先生から告知を受けました。あとで分かりましたが、日本ではあまり本人には告知していません。

本人に告知をすれば、かなりの心の動揺があり落ち込んで、なかには悲観して自殺する人も少なくないと聞きました。

看護婦さんなどからは「最初の透析の時も平気な顔をしていましたね。普通は落ち込んだり悲観したりするし、十五年前だったら八〇%の患者が自殺している。今でも三〇〜四〇%の患者が苦しいので自殺する人が多い」と言っていました。それなのに今回の告知を受けても平気な顔をしているので、看護婦さんや医者も不思議そうな顔をしています。

人間は本来弱い生き物で、私も人間、弱い人間です。最初の透析の時は動揺しました。透析の医学はかなり進歩しています。 透析をすると延命できる。 透析を拒否すれば人生の終わり、死」ということで、 私は延命の方を選択しました。 今の医学は一日一日進んでいるし、私自身することがたくさんあるので、 落ち込む時間がおしいぐらいだと考えて、心の動揺を抑えました。

今回の告知を受けた時も多少は動揺しました。定期的に日曜日の学習会(患者の)に出席して、いろ いろいろな勉強をしました。 癌のことも学習をしているし、、「末期の生活」など聞いていたので大丈夫です。 平常心を保つように、入院する前にジグソウパズルを買って、入院中にパズルをやっていました。それと二学期には復帰するとの生徒たちとの約束もあります。この二つによって、心の動揺を乗り越えました。

今回の入院によって一番感じたのは、人間は「生きている」のではなく「生かされている」ということです。人間が生まれるということは、何かの使命を受けて、社会にいろいろな貢献をすることだと思います。貢献にもプラス、マイナスがあると思います。もし神様がいて、まだまだ使命があり社会に貢献すると思われたら、人間は生かされる。もし使命が終わると、神様が「ご苦労様」と言ってくれて人生が終わる。手術後よくそう感じました。 今、まだ身体は充分回復していませんが、二学期には復帰し、 また努力をしていきます。暑い日が続いていますので、理事長先生も、身体には気をつけて下さい。  岸本昌之 】

89爺ィの愉しむ料理(139)

 今日の料理は楽ちんでした。

昨夜に冷凍しようと思っていたら妻が(明日も食べたい)と言うので、今夜もスープ掛けご飯です。

 今日はチーズを載せないで、ほうれん草のおひたしを作って出しました。

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 その代わりと言ってはなんですが、ブランチに

ホットケーキを作りました。ホットケーキ作りは

得意だったのですが、久しぶりで作ったので見た

目はいまいちです。

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 蜂蜜とバターを載せて美味しくいただきました。

高齢夫婦の日々のあれこれ(11)

 今日は雨の予想だったので洗濯物は少なくして、干し竿は思い切り手前に引いてあります。明日はお天気の予報ですから、このままにしておいて起床してから取り入れます。

 随筆の連載も、書き残していた原稿もあと十回程度で尽きてしまいそうなので大変。3年前に寝たきりから立ち上がって僅か3ヶ月あまりで原稿用紙にして800枚以上もよく書いたものだ、、、と思う。

 あの頃は、何もせずに原稿だけ、まるでそれが使命のように夢中で書いていた。

 予定では原稿用紙千枚のつもりでいたのであと1ヶ月というところで妻が第4腰椎の圧迫骨折となり、ベッドからの寝起きがことの他に時間がかかり辛そうだった。 と言うわけで一昨年12月半ばから私が主夫をもやらざるを得なくなり今日に至っている。

 妻が昨年11月に大腿骨の骨折で入院手術をして

主夫の期間が思いの外に長くなってしまった。

 食後の片付けとか拭き掃除など、かなりやってくれるようになっているが、買い出し、料理などは未だ当分は無理みたい。

 早く元気にな〜れと心から思っているのですが、

回復が遅れているというよりも、脊柱管狭窄症が悪化しているようで心配だ。明後日は病院での診察があるが、医師も判断が難しいだろうと思う。

随筆自伝(110)私を守ってくれたのはだれなのか

      《冷凍された種》

私がこの時の研修会のまとめに話したことを、以下に要約します。

【今度の合宿について、今までにない討議が行われたことを評価します。教師が傷をなめ合って生徒を裁くというようなこともなく、充分に切磋琢磨されたことはすばらしいことです。しかし、会議中、かなりの問題発言がありました。理念をどこかへ置き忘れてきたような発言も多かったように思います。

生徒が問題行動をした時に、どうして即座に厳しい対応をしなかったのかということが、不満の最も大きな部分だったように思います。

しかし、その問題行動の現場には、批判をしている人もいたはずなのです。しかし、間違った指導をしてはいけないと思い、差し控えておられたのでしょう。間違った指導をするより、その方がよかったかもしれませんが、もしそうなら、後日になって批判するのは筋違いでしょう。

『初めての問題行為』 に遭遇した時の処置が悪かったのではないかと考えている人もいます。一部の教師が間違った指導をしないかと心配した教師も居るでしょう。

あのような場合では、教師の間違った指導で生徒対教師の対立の図式が出来上がりやすいし、万一そのようになってしまったら、結果として多くの生徒を巻き込み、場合によっては処分をしなければならなくなります。一部の生徒たちがしたことは決して良いことではないし、許されることでもないのですが、そのことにだけに目がいけば、生徒を裁き、教師の反省はまったくなくなってしまいます。U先生の指揮は正しかったし、私が日頃言っていることを実行して下さったのです。

入学したばかりの一年生の生徒は 『冷凍された種』 だと、私はよく申し上げています。 中学校の頃、校門から入れてもらえなかった生徒もいます。親が離婚する時に、

『俺は子どもはいらん』

『私もいらない』と言われて、両親から捨てられた生徒もいます。この学校に来ているからには、みんな何らかの大きな問題を抱えているのです。 小・中学生の頃、学習不振になったのにも大きな原因があります。身体障害かもしれませんし、情緒障害かもしれません。L・Dだったかもしれないし、そのことが原因でどれだけ叱られたかもしれません。

そのようななかで二重に三重にゆがめられ、心を閉ざし、どんどん心が冷凍されてしまうのです。  本来は、大きく、大きく成長するはずの草や木や花の種が、冷凍されてしまっています。

この学校へ来た時の生徒は、みんなそのような状態なのです。

冷凍された種に水や肥料を施してもむだなように、彼らに急いで勉強を詰め込もうとしてもむだなのです。

冷凍されたものをゆっくりと解凍してやるのです。人肌で暖めるのが一番いいのです。それは愛です。その愛で冷凍されているものを融かし、ゆがんでいるものを直し、大人不信になっているものを信じられるようにするのです。

私たちは、今までもそうやって生徒たちと一緒にやってきたではありませんか。そうして、生徒が変わっていく様子をたくさん見て実感してきたではありませんか。

一年生の七月といえば、入学してまだ三カ月です。その間に先生たちは解凍を心がけましたか?    どれだけ生徒に愛を注ぎましたか?    授業、出席、進級のことに目を奪われて、生徒たちの心をさらに凍らせてしまうことの方が多かったという先生はいませんか。 生徒の機嫌をとるとか、生徒とかけ引きをしていませんか。

あなたたち教師が、冷凍された種に対してこの三カ月間に何をすることができたかとういうことが試される合宿だったのです。 

毎年、一学期末の時点で合宿を行えば、多くの問題が起こるということを経験して知っていながら、この時期にあえて合宿を行っているには理由があるのです。

爆竹は悪質でしたか?   面白半分ではなかったでしょうか?  教師が過敏に反応しすぎて、彼らが面白がったということはありませんか?

私には解凍されて行く時のパチパチという音に聞こえます。解凍が進んでいる証しだと受けとめます。

障子や壁を破ったのも、ねじれたものが元に戻る時に当たったのだと思います。教師に暴言を吐いたのも、解凍がどんどん進んでいる証拠です。 私たちが、これまで生徒を信じてきたからこそ、生徒は立派に成長して卒業し、社会で活躍しているのです。

『教師の力量を超える生徒を入学させ、在校させるのは無理ではないか』 と発言した人も分かって下さいましたか。

あなたはまだ生徒を指導したこともあまりないし、生徒の成長を心で感じていなかったのですね。教師の力量に合わせて生徒を受け入れるのではなく、生徒に合わせて、教師が力量を高めていかなければならないのです。

この学校は生徒のために作った学校なのです。そのことを忘れないようにして下さい。 また、みなさん、私たちは医者であり、カウンセラーであり、弁護士であり、教師でなくてはなりません。そのためには、それらの勉強をしっかりして下さい。特にL・D問題を知らずしてこの学校の教師はつとまりません。どうか生徒を裁くことなく、生徒の善と可能性を信じ続けて下さい。そのために、あたな自身を高め続けて下さい】