中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

あんなこともあった(28)獅子は

前3回に、私の人生で一番つらかったことを書きました。

辛かったのですが、そのことが私を強くしたのだとい思います。

どんなことがあっても帰る場所がなくなったのですから。

「獅子は、子育てが終わると子供を千尋の谷に突き落とす」と言う言葉がありますね。

子育ては終わったのだから、あとは自分で生きなさい。

千尋の谷から這い上がってこいということでしょうね。

拙書「教育の原点」の中にも書きましたが、私は祖母を恨んではおりません。

あのことがなければ、心のどこかに(甘え)が残っていたかも知れません。

背水の陣という言葉がありますが、それ以降の私は、まさに背水の陣の人生だとも言えなくもない。

二つ書き添えておきます。

祖父が亡くなる少し前に我が家に来ました。

家に上がろうともせず、私に「お前の気持ちはよく分かっている。辛い思いをさせた」とだけ言って帰って行きました。

祖父が亡くなったときの葬儀では私なりに精一杯のことをいたしました。

それから3年後、となり町で縫製工場を経営している私の許に祖母がやってまいりました。

祖母も家に上がろうとはせず、お前に頼みたいことがあって来たんだと。

「おばあちゃんが死んだとき、おじいちゃんにしてくれたような葬式をしてほしいんやけど、してくれるか?」という。

当たり前やろう、おばあちゃんのときもちゃんとするさかい、と言うと、頼むよと言って帰っていった。

祖父は突然訪ねて来て直ぐに脳梗塞で亡くなった。

祖母は、私の家に来たあとに脳出血で中風となり、約8年ほど寝たきりになった。

8年という長い年月を介護した(叔父のお嫁さん)は、私と同い年で、今もお元気だ。

祖父も祖母も辛かったのだろうなと思った。

父の兄弟11人を全てをよく知っているのは私だけだ。

語り部として、娘たち、孫たちに伝えたいが、多分聞く耳を持たないだろうな。

次は(井戸の話)です。

 

 

 

いろはカルタ.Ⅱ(よ)

「葦の髄から天井を覗く」(よしのずいからてんじょうのぞく)

 

葦ってご存知でしょうか。

都会の近郊で見かけなくなりましたね。

昔の?田舎にはたくさんあったのですが。

池の周囲などに生えていました。

琵琶湖では、葦が水質をきれいにしてくれるという科学的な視点から大切にしているはずです。

そういうことを知らない田舎では、葦を取っ払って水質を悪化させているところもあるようです。

葦の髄から覗いて見ても、狭い視野しかありません。

ですから、葦の髄から天井を覗いて知ったかぶりをするなという戒めの言葉なのです。

(井戸の中の蛙大海を知らず)という言葉の方が

分かりやすいですね。

現代風なら、狭い視野で世界を語るな、と言うところでしょうか。

今日の数字.3万1,457人

今日は嬉しい数字があります。

重症者が、1月10日以来の二桁になりました。

重症者がゼロになる日が来ますように。

感染者、3万1,457人。

死亡者、18人。

重症者、92人。

空港検疫での陽性者、116人。

あんなこともあった(27)

「雨露を防ぐ」という言葉があります。

産物によっては雨と露を防がねばならないこともありますが、人が生きていく上でも(雨、露)から身を守らなければ健康を損ねて命まで奪われてしまうのです。

最近の人たちは(雨、露)をしのいで生きるなんて考えたこともないかもしれません。

軒下を借りてでも、雨、露をしのいで生きてきた人は、昔にはいたでしょう。

1ヶ月に及ぶ厳寒での野宿生活は悲惨でした。

もし働く場所が見つかったときに備えて、身だしなみをきちんとして置かなければ、と思う気持ちでいたために熟睡も出来ない日々だった。

馬のように立ったまま眠ることが多かった。

 

さて、5年間も無沙汰していた祖父母の許に戻りました。

見知らぬ女性がいました。

父の末弟である叔父が結婚していたのです。

二人の叔母が居ませんでした。

叔父が結婚したことも、叔母二人が嫁いだことも私は知りませんでした。

それまでの私の居所は知らせてあったし、母と再会したことも知らせてあったが、家族の結婚の話などは何の連絡も受けてなかった。

毎日、食事に事欠くことがなくなり、少しずつ身体も回復してきましましたが、手元にお金がありません。

このような場合にも、祖父母にお金を貸してとは、絶対に言えない私でした。

父が祖父母や姉妹たちに金を借りたことを、これまで何十回も聞かされ、父を批判し、その息子の私も同類になるのではないかと言われ続けてきていたから、私は決して身内から借りないぞと肚を括っていたのでしょう。

近所の中学生3人に声をかけて週に二度、英語を教え始めていました。

ここから先を書こうとすると、(あの場面、あの言葉)を思い出すので辛いのですが...。

 

そんなある日、家に戻ってから約一月ほど経った頃の午後3時頃、祖母が私を牛小屋の前に呼び出しました。

「お前のことは、嫁さんを迎えるときに、相手の家に言うてないのや。」

(説明しないとわからないでしょうね。叔父に嫁を取る話の時に、私のことは何も相手側に伝えてはいない)

(本来は、竈門の灰までお前のものだと言われ続けた跡取りの立場だった私が戻ってきては困るのだ、といういになのです。)

 

この言葉を聞いて、私は5分後には家を出ました。

家を継ごうなどとは思ってもいませんでしたが、

私を完全に無視した言葉に唖然とし、口答えさえせずに家を出たのでした。

私の存在、人格も全てが(否定)されたように思えたのです。

存在そのものを消されてしまったと思えた。

夜が迫ってくる時間帯だったので、とにかく今晩の寝る場所を探さねば。。。

お金がないからはじめた中学生たちへの英語指導も2度しかやっていない。

とにかく大阪へ戻りたいが金が無いから、兎に角も働いて金を貯めなくっちゃ。

翌日直ぐに仕事が見つかった。

旋盤工見習いだった。

ミシン部品製作工場だった。

手先が器用だったのか、一週間も経たないうちに本雇にしていただいた。宿は2階の間借りをした。

夜には、そろばん塾へ行ってソロバンを習った。

それが将来に大きく役立つとは思ってもいなかったが、運命とは不思議なものなのです。

思い出すだけで苦しくなる話を、早書きで記しました。

あの(父の子)が立派に育って、父の汚名をそそいでやろうと執念のように思っていた年頃だった。

絶対に酒は飲まないぞ!!と、心に決めた時でもあるます。

曽祖父、祖父、父、父の兄弟たち(一人を除いて)

は大酒飲みだった。誰もが酒に弱いから、飲めば崩れる。酒に呑まれる体質だった。

母との離婚もそれが原因だったと聞いている。

代々の大酒飲み一家は、いつの日か、酒で終わってしまうだろうから、私は飲まないぞと決めた。

よほどの場合に少しは付き合うが、今でも飲まない。

今思えば、6歳の頃から孤独だった。

それにめげずに頑張って来たことを、自分で褒めています。

 

 

いろはカルタ.Ⅱ(か)

「陰裏(かげうら)の豆もはじけ時」

豆は女性器を表します。

どんな日陰に撒いた豆でもときが経てば必ず芽が出て育ってくる。

言い換えると、どんな娘でも色香が匂う時が来るということなのでしょう。

娘18番茶も出花という言葉もありますね。

男性には、このような言葉があったのかどうか識りません。

今日の数字.3万5,922人

先週よりは少し減っている感じの数字でした。

感染者、3万5,922人。

死亡者、31人。

重症者、101人。

空港検疫での陽性者、63人。

「サル痘ウイルス」が怖いですが、政府は観光客も全面的に受け入れる方針です。