中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(145)私を守ってくれたのはだれなのか

《両陛下から御所での「お茶会」に招待される》

 

 第40回海外日系人大会に参加し、様々な経験をさせてもらったが、最終日の夜に大会関係者から、代表者の中から15名が御所での「お茶会」に招待される旨の連絡があり、私もその中に選ばれていた。平服でよいとのことだった。

 翌日午前10時ホテルに迎えに来た小型バスに乗って皇居に向かう。代表者の一人がつぶやくようにこう言った。「不思議だなぁ、70年安保の時には、毎日毎日、総理官邸の前をデモしていたんだけれどガードが固くってどうにもならなかった。それが、昨日、何のチェックもなく総理官邸に入れたし、今日はこうして皇居に入れるんだから、時間の経過というものは不思議だな~」と。

バスは何のチェックも受けることなく門をくぐり皇居内へと入っていく。皇居の中の庭を縫うようにして進む。思いのほか広大だった。皇居の石垣はこれまでは外側から眺めていたものだが、内側から見るとそれほど美しいものではないことを始めてしった。皇居内を縫うようにバスが走るので、皇后陛下が大切にされている養蚕場などいろんなところを通りすがりに見ることができた。

皇居は、宮殿と御所に分かれている。宮殿の部分は皇居正面に近いので外からでも遠望できるが、お住まいである「御所」は宮殿を通りすぎてかなり奥に位置している両陛下のプライベートな部分でもある。

御所に到着する前に外務省の担当者から注意事項の説明が行われた。カメラはバスの中に残すようにと指示される。

そして「本日は、両陛下の特別なお計らいで、このような機会を設けることができました。今日は両陛下から握手を受けることができますが、日本人の場合は、内閣総理大臣と言えども両陛下とは握手ができないしきたりになっています。皆さんは外国からこられたと言うことで、外国人扱いとして握手をしていただけますので、そのおつもりでいてください」と申し渡され、みんなに緊張が走った。担当者に「ニュースでは慰問などにいかれた皇后さまが握手をなさっているように見受けられますが」という質問に担当者は「慰問の場合は握手はされておりません。優しく手を握っておあげになっているだけなのです」との説明があった。

《両陛下と固い》握手を交わす

平屋造りの御所の玄関を入ると両陛下がお出迎えくださった。天皇陛下と握手を交わし、次いで皇后陛下と握手を交わす段になって私は戸惑った。力を入れずにそっと触れるように手を差し出したところ、美智子皇后はぐっと力強く握りしめてくださったので、私も力を込めて握り返した。羽二重もちを握りしめたような感触を味わった。

通された部屋は、時折TVなどで映される客を迎えるための部屋で天井の高い、格式のある雰囲気の部屋だがそれほど広くはなく、ゆったりとした空間だった。

 両陛下は、参加者全員とそれぞれに二言三言、言葉を交わした後、別々に場所にお立ちになった。我々も自然と二組に分かれ、天皇、皇后それぞれを囲むようにしてお話しては自由に入れ替わりながら何度も天皇陛下皇后陛下とお話しする機会を得た。

《自由な雰囲気の中での会話》

両陛下も、私たちもガラスコップを手に持ち、お茶を飲みながら懇談するという、信じられない時が1時間の予定を超えて与えられたことは、私の波瀾に富んだ人生の中でも特筆なものとなった。

両陛下との懇談の中で感じた事は、記憶力の凄さであった。各国代表との会話の中で、次々に質問を浴びせられる。とても事前に用意しておけるようなものではない話題だけに、参加者一同が驚嘆していた。また、美智子皇后は、想像以上にお優しく、とても言葉に表せない感動を受けた。

皇后陛下と二人きりになったときに、その年にインドで行われた「国際児童書会議」へのご参加を体調がすぐれないためにお取りやめになり、その代わりとして、開会式へのお言葉をビデオで寄せられたことについて触れ、「ビデオを拝見しましたが、素晴らしいメッセージございましたね」と申し上げると「慣れない事をいたしまして、恥ずかしゅうございます」と、身を屈めておっしゃった謙虚なお姿は今も私の目に焼き付いて離れない。  

参加者たちと両陛下との会話はそれぞれ興味深いものだった。両陛下は各国の事情にとても理解が深いことを強く感じ取ったものだ。あまりにも拙い表現だが一言で言い表すと「さすが日本国の象徴」と感服するほかなかった。

両陛下と参加者たちとの会話の一部始終を書きたいがそれは省き、この会合がいかに和やかだったかを表すエピソードを少々紹介しておこう。

 パラグアイ代表が「陛下、パラグアイには美人が沢山おりますので、ぜひパラグアイにお出ましください」と言った時には、いつもすばやく対応される陛下が一瞬何もおっしゃらず、ニコッとされただけだった。季刊・海外日系人という雑誌には、第40回大会の模様が詳しく報じられている。私の発言や寄稿文も掲載されているし、御所での写真も掲載されている。その写真がとても恥ずかしい。陛下のすぐ後ろで私がグラスを傾けているのが写っているからだ。

天皇陛下皇后陛下が少し離れてお立ちになり、参加者は数名ずつ両陛下を囲む形で

懇談することができた。天皇陛下を囲む輪に入って順次にお話しを交わし、次いで皇后を囲む輪に入ってお話を交わすということを数度繰り返した。

《パースの話題で盛り上がる》

 両陛下が並んでおられるときに交わした会話を少しだけ再現してみよう。

参加者各自の胸には名札が付けられていた。私の場合は準備した外務省が間違えたのか「豪州・シドニー」書かれた下に氏名が記されていた。

皇后陛下が私にシドニーから来られたのですねと問われるので、いいえパースから参りましたとお答えすると「そうですか、パースはとても美しいところでした。今もはっきりと覚えています。パースの総領事は鹿野谷ですね」と即座におっしゃったのには驚いた。

いちいち全世界の総領事の名前を暗記されているわけではないだろうからと、皇后陛下の即座の言葉に驚いていると「ピアスさんもお元気でいらっしゃいますか」と質問され、ピアスさんの当時の現状などをご説明すると、皇太子妃としてパースに行かれた当時のことをこと細かくお話になった。その時、天皇陛下が話に割ってはいられ、「あの時、私はフリーマントルに行っていたので、パースについては皇后ほど詳しく知らないのですが皇后はとても気に入られそうだ」と仰った。皇后さまは、まるで昨日のことのようにパースの思い出を語られたのがうれしかった。

 自由にしてよろしいですよと言われていたので、私は大きなガラス戸を開けて昭和天皇が大切にされていたというお庭にでて歩いてみた。昭和天皇は「雑草いう名の草はない」という名言を残されているほど庭に生えている草々を大切にされていたようで、その場所に立って、そのお言葉をかみしめながらしばらく散策をしたが、私のほかには庭に出る人はいなかった。

 予定時間が大幅に過ぎ、外務省の担当者に促されるように帰路についてが、両陛下は玄関までお見送りくださり、一人一人に丁寧に固い握手を交わされた。