中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(155)私を守ってくれたのはだれなのか

    《メンバーが減っていく辛さ悲しさ》

 少し辛いことを書く。事実とちゃんと向き合っておきたいという気持ちがあるからだ。

S.Yさんが亡くなる直前に大阪府立成人病センターでお会いした。両方の眼球が大きく腫れあがり、片方の眼球だけがわずか5ミリほど開いていた。

彼女は、その小さな穴から字が読めるというので、紙に大きな字を書いて筆談をした。彼女の気持ちが伝わってきた。「残念」だと言う。入院中の彼女の活躍を知っているからこそ辛かった。彼女は入院中の患者たちに明るく振る舞い、みんなを勇気づけ、希望を与え続けた人だった。こうしてメンバーが一人減った。

 若くて美人で尼崎在住のF・Kさんがいた。彼女は粒子線医療センターに入院するまでにすでに、静岡県聖隷浜松病院で片方の眼球を摘出する22時間にも及ぶ大手術を受け、その後も義眼を入れるための手術を何度も試みたが、その都度がんの再発が発見されて手術には至らなかったという内容の、彼女の書いた記事が私の手元に残っている。

最初にがんが見つかった時は「悪いものではありませんよ」という程度のものだったそうである。それが結果的に眼球摘出に至り、再発を繰り返し、ついには医師から兵庫県立粒子線医療センターを紹介されたと書いてある。彼女は大きな希望を持っていた。結婚したい、子供をつくりたいと何度も何度も話してくれたものだ。嚢胞(のうほう)がんの一種だが、とても珍しい病名だった。

兵庫県立粒子線医療センターを退院して半年もたたないうちに、大阪の済生会病院に入院することとなった。

私は「はりま粒友クラブ」の女性メンバー3人と何度も見舞いに訪れた。彼女は、がんが脊椎に転移してすさまじい痛みに悶絶(もんぜつ)する毎日だと笑いながらこんなことを言う。

『ちょっと聞いてよ。お母さんたらひどいのよ。夜中にあんまり痛いから、枕を投げつけて、何とかしてよ!って、叫んだら、そんなことをしていたら天国に行けないよ、なんて言うのよ。私が死ぬと思っているみたい、ひどいでしょう』

と。お母さんは、彼女が亡くなるまでの3年間、ずっと病院で彼女とともに暮らしていた。とても誰もができる看病ではない。頭が下がる思いでお母さんの看病する姿を見ていて辛かった。

 F・Kさんが尼崎のホスピス病棟に転院してから見舞いに行くと、お母さんが娘に向かってこんなことを言っていたことをも思い出す。

『なによ、あんたは。さっきまで痛い、痛い!って、叫んでいたのに、Nさんが来て手を握ってもらったら、痛いって一言も言わないじゃない」と。

 お見舞いに行くと、必ず両手で彼女の手を握り、1時間ほど話をする。お見舞いというと、誰もが果物とか、花とかを持っていく。そういう気配りが一般的だ。だが、私は小さなパッケージに入った苺(いちご)しか持っていかない。病人にはそれで十分なのだ。それよりも、手を握ることの癒し効果の方がどれだけ大きいかを知っているからだ。私が見舞われる側になっても、手を握って話しかけてほしいと願っている。

F・Kさんは、尼崎医療生協病院ホスピス病棟で亡くなったが、この病院について一言書いておきたい。病室はとても広く、環境も良い。ボランティアたちの活躍も素晴らしい。何よりも差額ベッド代金を取らないという経営方針には敬服している。

       《炭素イオン線治療》

 いつも見舞い活動を共にしていた女性のI・Sさんの病状が悪化してきた。彼女も、上記二人の女性も粒子線ではなく炭素イオン線治療を受けていた。

 ここで少しだけ解説をしておこう。粒子線は陽子線と炭素イオン線に分けられる。一般的に粒子線治療と呼ばれているものは陽子線であり、炭素イオン線は重粒子線とも呼ばれている。兵庫県立粒子線医療センターは、この二つの施設を持っている数少ない施設でもある。粒子線は放射線の中で電子よりも重いものをいい、重量子線はヘリウム原子よりも重いものと定義されている。

 炭素イオン線で治療を受ける患者の多くは頭頸部がん患者である。

I・Sさんは退院後しばらくたってから目が痛む日が続き悩んでいた。次第に痛みがひどくなり、いろんな疼痛(とうつう)治療を受けたが効果がなく、粒子線医療センターにその悩みを訴えた結果、もう一度炭素イオン線照射を受けることとなった。

I・Sさんが強く望んだ結果でもあるが、放射線治療をした部位に再び照射をするケースはほとんどないというか考えられない。(個人的にはミス治療だと思っている)

まして炭素イオン線を同じ場所に2度も照射するケースは稀(まれ)であろう。「組織が溶けてしまうかもしれませんよ」と言われたそうだが、痛みが消えるならと彼女が強く望んだということだったが。 患者から頼まれても、やるべきではないことは明らかだった。 

本人も自分が望んだことを悔やんでいた。