中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(23)私を守ってくれたのはだれなのか

 《昭和二十年八月十五日、終戦の日

  (1945年)

 その日はよく晴れていた。正午に玉音放送があることは知っていて、家族はラジオを囲んで時を待っていた。わたしは朝早く畑に行って、まだ熟れてない青いトマトをちぎって食べた。とにかく、飢えていたのだった。

 玉音放送が終わっても、だれ一人泣かなかった。やっと戦争が終わったことを安堵し喜んだ。

 大阪では食べ物が手に入らないからと、真知子叔母と18年生まれの娘(和子)も疎開にやってきた。

 祖父母、栄治、敏美、わたし、義母、生まれて半年後から引き取っている恵美子(真知子の娘で私が子守などをさせられていた)知代と勲親子、真知子と和子親子で、十一人家族となった。

 農家ではあるが小作農であってゆとりがない。半分以上丸い麦が入っているご飯を分け合って食べた。

 真知子親子は二か月間ほどで大阪に戻った。狭い家の中で過ごすより、今里の家は空襲を受けなかったので、気分がゆったりするだろうなと思った。

 知代親子は一年ほどたってから大阪にもどったが、焼け出されたので家もなく、どうするのだろうかと案じられた。

 優子叔母は、以前の住まいの近くに安住していると便りがあった。

 

 <皮膚病に大いに悩まされる>

 戦争が終わり、疎開してきていた人たちが帰り、なにごとも安定期にあったころも、私には深刻すぎる問題があった。

四年生の半ばころからあちこちに皮膚病があらわれ、日を追うごとに重症化していた。

 一年生の時に池で溺れて、右耳から膿が出るようになった。膿はほんの僅かだが、とても臭い。半紙で<こより>を作って日に一度は掃除をしていたが、だれ一人もお医者さんに診てもらえばとは言わなかった。もちろん田舎にはただ一人の医者しかいなかったし耳鼻科などない。

 耳のことも辛いが、皮膚の問題は深刻化するばかりで、家族のものも見て見ぬふりをする。

 太ももの上部の大部分と、内股、膝関節の裏側が特にひどかった。表面がかゆい、痒いから搔むしるという悪循環で日ごとに悪化した。

 膝の裏、内股、太ももの上部などが、かさぶたができて化膿し、ついにはズボンの上まで膿が滲んできて、皮膚とズボンがくっついて、はがれないというほど酷かった。はがすためには濡らしてから、そっと少しずつめくってはがした。

 当時を思い出すと、今でも涙ぐんでしまう。そのような状態の中でも、毎日のように農作業と、水汲みを続けていたのだから自分なりによく耐えたと思う。僕の皮膚の状態を知ってもアドバイスをする人はだれもいなかった。

 耳掃除をし、皮膚の手入れをしている姿をみて、汚らわしいものを見ているようだった。皮膚病は悪化する一方だった。風呂は、私が最後に入ることは、最初から決まっていた。最後の風呂に皮膚疾患のひどい子供が入るとどうなるか。あの頃は衛生観念などなかったのであろう。ぼく自身も知らなかった。日本は他国に比べて衛生観念の高い国ではあったが、栄養不足からくる皮膚病と衛生管理についてはまだまだ、知られていなかったのだろう。

 <担任教師の不注意な一言が僕を追い込んだ>

 五年生の一学期、体操の時間を休みたいと担任に申し出た。滝本先生は、「どういう理由で休みたいのか、どのような事情なのか言ってみろ」という。説明すると「ここで見せてみろ」という。しかたがないので、ズボンの表面を見せて説明しても理解してくれないで、教師はズボンを脱いでみろと言った。

 クラス全員がいるところでズボンを脱がされた。皮膚が盛り上がり化膿している最悪の状態になっている姿を、みんなの前にさらされたのだ。

 <僕についたあだ名> 今ならいじめ

 その翌日、だれが言い始めたのか「ばいちゃん」というあだ名で呼ばれるようになった。クラスのだれかが、僕の症状を家族に言ったのか、先輩に話したのかもしれない。

そこで、(それは梅毒とちがうか)と知ったかぶりで言った人がいたのだろうと思う。それが、学校中に広がった。

 そのあだ名が、僕をひどく傷つけた。たぶん死ぬまで、このあだ名をつけた人を恨むだろうと思った。

 ひとは、無意識のうちに人を傷つけるものなのだ。傷つけたほうは自意識がないから罪悪感もないだろうが、そういうあだ名をつけられた私は苦しむ一方だった。

 最も悪いのは、担任教師である。いくら戦争中であったとしても、生徒を傷つける行為は許されない。この教師は、終戦になった二学期から、虎が猫になったかのように変わってしまった。この教師が住む生穂の家をいまでもよく覚えている。

 軍国主義一辺倒の教育を強制させられていた多くの教師たちも、教育というものに信念を持たぬ人たちは、混乱したに違いない時代ではあった。

滝本教師によって、私は一生苦しめられたと言って過言ではない。だから、あえて本名で書いた。

 八十歳間近に開催された同窓会で、久しぶりで同級生たちと再会したとき、ある女性が、わたしを見て「あのバイちゃん?」と言った。彼女とは同じクラスになったことはない。こんなにも長い期間を経ても記憶されているのは、滝本先生と、あだ名を最初につけた生徒の罪である。