中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

「生かされている」という言葉は、半分有難く半分辛い

 私は生かされている。こんな言葉をずいぶん前から使ってきた

ようにおもう。なにげなくというか、格好づけに逝ってきたのでは、

と反省もしている。 しかし、実際のところ、今の私は生かされて

いる。だって死んでいないんだから。死ぬ覚悟なんて言う言葉も

ずいぶん前から使ってきたと思う。今思えば・・いい加減な覚悟

だったとも思える。覚悟なんて言葉も格好づけに過ぎない。

だれだって、いざというときになれば、すがってしまう。なにに

すがるのか? やはり・・と言おうべきか、命にすがっている。

あの野村さんが愛妻の佐知代さんが亡くなってがくんと来ている

感じだった。 妻の墓標の前で「もう少し迎えにくるを待って

くれよ、もうちょっと浮世を楽しませてくれよ」と言っていたが、

佐知代さんが迎えに来てくれたときは、浴室でホッとしたこと

だろうと思う。 辛くない逝き方だったと思える。思えるだけで

本当のことは知らないけれど、苦しんだり悩んだりする時間が

少なくて逝けたのだから、とてもラッキーだ。 それでも人は

とやかく言う。とやかく言う人が間違いなのであって、ご本人は

大満足の大往生だ。 できることならば、私もそうありたい。

あやかりたい。 生かされているということは、生かされている

文をお返ししたいものだ。誰に、なにに、お返しするのか?

私をここまで生かし続けてくれた人たち、世の中になにかのお役に

立てないだろうか? 50歳以降は、そうおもって、妻に言わせれば、

あなたはボランティアの人生ですね・・というが、そうかもしれない

し、それほど胸を張れることでもない。 でも誰かの支えになれれば、

それで幸せというものだろう。 支えられているような感じにもなって

きたが、だれかを支えているつもりで、生かされていることに感謝し

ようと思う。