《親友の協力と彼の死》
日本がん楽会を立ち上げるに際して、副会長として中島氏に就任を依頼した。彼とは私が39歳で会長を務めた神戸ファッション・ソサエティー(KFS)当時からの旧(ふる)い知り合いであり、KFSの第5代目の会長を務めてもらった人でもある。
彼は、2005年に帰国した私に「どうせ、あなたのことだから何かをやるのでしょう。任せてください、あなたがこれまでに築いた人脈を受け継いでいますから、何かをやる時には役に立つでしょう」と言ってくれていた。もちろん、がん患者会組織立ち上げに過去の人脈は必要なかったけれど。
彼は阪神淡路大震災後にボランティア組織を立ち上げて大活躍中で多忙な日々であったが、日本がん楽会の副会長を快く引き受けてくれた。
彼は1998年に悪性リンパ腫を告知されたが、治療が功を奏し、とても元気になっていたのだった。
話が先に飛ぶが、彼は2010年から阪神淡路大震災関連の多くの組織を集約した「1・17のつどい」の実行委員長としての務めを全うした1カ月後の2011年2月15日、73歳で亡くなった。肺がんが見つかって6カ月後の死だった。
悪性リンパ腫が完治したと告げられたのちのも、病院には毎月行って血液検査を受けていた。
2010年の「日本がん楽会」の大美術展を終えてから、北野町の画廊に協力していただいたお礼に二人で出かけた。彼はどこに行くのも自転車で行く。神戸だけではなく近隣都市までも自転車で行くという。少々の坂道でも苦にならないらしい。
夜は8時に寝て、朝は3時に起きて散歩するらしい。真っ暗な中を散歩しても楽しくないだろうという私に、もう習慣になっているから、どんなに寒い日でも3時に起きて散歩を欠かさないという。
ところが、その日は二人で北野の坂道を歩きながら、知り合ってから45年間の彼の人生を語り始めた。他言できない個人的な思い出もいろいろ語り合えた。打ち解けてこんな話ができるのは、いまではNさんだけだよと言いながら、想い出を語ってくれた。
そして、
『最近はね、こうして歩いているだけで息が苦しくなるのだよ。どうしてだろう?』 という。
その日から2週間後に電話がかかってきた。
『きょう、病院で肺がんだと言われたんだよ。会ってくれるかな』
すぐに彼と会って話を聞いた。
『ずっと毎月、病院で血液検査をしていたのに、どうしてこれまで分からなかったんだろう.どう思う』
『これまでやってきた血液検査はね、悪性リンパ腫の再発があるかどうかの腫瘍マーカーの検査だったと思う。患者は病院がなにもかもも調べてくれていると勘違いしやすいけれど、実際はそうじゃないからね。だから肺がんに気がつかなくても仕方がないのだよ』
さっそく、日本がん楽会の相談医になっていただいている小久保先生に連絡を取り、翌日に先端医療センターで検査を受けて診断や今後のことなどを聞いた。(小久保先生は2022年の現在は、神戸市医療センター・中央市民病院の、放射線治療科部長)の
2008年に、神戸での講演をお願いした(当時、北海道がんセンター院長)の西尾正道先生に、日本がん楽会の相談医を捜しているのですが、神戸に適任者はおりませんかとお尋ねしたところ、
『身近にいるじゃないですか。日本で10本の指に入るほどすごい放射線医療の専門家だよ』といって、会場に来られていた小久保先生を紹介していただいたのだった。
小久保先生は、お二人だからはっきり言いますが、とても厳しい状態で、余命は半年程度だと覚悟しておいてください、とのことだった。たちの悪い肺がんで、当時の抗がん剤も、放射線治療も効果がないだろう、生活の質を考えるなら、このまま過ごされるのが良いと言われた。
《彼から遺言を聞かされるが、伝えられず》
彼が亡くなる三日前に奥さんから電話があり、彼が合いたいと言っておりますと連絡があった。
それまでも見舞に行っていたが、必ず誰かと一緒だったので、その日は別に会いたいという。
彼は礼儀正しく、わたしがいくと起き上がって挨拶しようとして、身を起こそうとする。もう長く話す力もなくなっているようだったが、自分が作ったボランティア団体のことで、わたしに遺言を伝えかったようだ。
(もうあの団体はなくしたいので、後継者はいらない)と伝えてほしいということだった。
2011年の1.17の催しを寒風の厳しい中でやり遂げた後だった。彼が亡くなって、とても大きな葬儀が行われた。会場があふれるほどの人が参列した。その会場で、すでに後任人事などを決めたことも発表されたので、わたしは彼の遺言を伝えることもできなかった。それから12年目が近い日にこれを書いている。