中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

阪神淡路大震災・中島実行委員長の死

  あの日から8年が経とうとしている。1月17日になると思い出す。
 1月17日の神戸市、東遊園地で毎年恒例になっている集い、
阪神・淡路大震災「1.17のつどい」実行委員長の中島正義さんが、その日の
式典に出席していた。
 とてもとても寒い日だった。かれは入院中であり重体の身だった。それでも彼は
覚悟を決めて出席したのだった。
 彼が亡くなったのは2月15日だった。 その3日前に奥様から電話があり私に
会いたいと言っているというので病院に会いに行ってきた。
  律儀な彼は重い病状の中なのにベッドから頭を持ち上げて挨拶してくれる。
彼の要望だったので、いろいろと話をした。私とは35年の親交があった。
  彼から、組織に関して遺言のようなものも訊かされていたが、彼の逝去は
大きな波紋を広げ、とても大きな葬儀な執り行われた。
 震災後の復興における市民のまとめ役として大きな力を発揮されたので、多くの
方がたから慕われていたのだった。
 彼は二度もがんを患った。最初は悪性リンパ腫だった。抗がん剤で辛い思いを
したが完治していた。そういう経緯があったので、私が立ち上げた日本がん楽会の
副会長も務めてくれていた。 
  亡くなる前年のある日、彼からの電話で「肺がんと言われた」と訊いた。彼と一
緒に病院にも行った。小細胞がんというたちの悪い肺癌だった。その時から彼は
覚悟を決めていたようだった。でもこんなことも言っていた「毎月S病院で検査して
きたんだよね、10年以上も・・・、それなのに、こうなるまで見つけられないんだね」
と。 病院の仕組みを話して・・そういうもんなんだ病院って・・と説明した時の悔しさ
を今でも思い出す。 亡くなる三日前に訊いた遺言的なことを、組織の人たちに
伝えることが出来ないままで8年が過ぎてしまった。 葬儀のあとにどんどん話が
進んでいろんなことが決められたようで、私がそれを知った時には遺言を伝えられる
雰囲気ではなかったのだった。 
 今も、中島さんが懐かしい! 会いたい!! でもこの日は毎年、君を思いださせる
ように訪れてくる。 73歳での死は早すぎたよね。 もっと話したかったな~。