中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

二つしか書けない阪神・淡路大震災のこと

 阪神・淡路大震災(1995年(平成7年)1月17日)からあと5日で

25年になる。 この地震についてはあまり書きたくない気持ちが

あるのです。いろいろありすぎて、思い出すだけで頭がしびれて

きます。頭鳴りがひどくなって・・しびれるのです。 ですから

二つだけ書くことにします。書くことには慣れている私が、阪神

淡路大震災について書こうとすると、頭がしびれるのです。

 最初は、阪神淡路大震災1・17のつどい実行委員会委員長を

いていた中島正義さん(1938 - 2011)のことを書きます。

彼は2011年02月15日に亡くなりました。73歳でした。

  2011年1月17日には東遊園地で「式典」が行われました。

この日、中島さんは肺がんの影響で肺炎気味で高熱でもありました。

止めた方がいいじゃないかという言葉も振り切って、雨の降る風の

強い式典会場に向かったのでした。1・17のつどい実行委員会

委員長としての務めを果たすためでした。

彼は、その日から1か月も経たない日に帰らぬ人となりました。

 あの頃は、若くして気の毒に・・とだれもが言っていましたし、

そう思っていました。私と4歳違いだったが、今では私と13歳違い

になってしまって・・変な感覚ですが、若くてうらやましい!なん

て思ってしまいます。

 神戸ファッションソサエティー(K・F・S)の初代会長をわたしが

6年務め、10歳以上も年下の柿本さんが2代目会長となり4代目が

中島さんだった。そういう関係にあったのです。 大震災後、木造の

家が傾いた中島さんに柿本さんが「風呂に入りにおいで」と誘いました。

この時に中島さんは「ボランティアをやろう」と心に決めたそうです。

柿本さんの心に触れたときに、その心を他にも伝えたいと、彼は考え

たのでした。そしてそれを実行に移し多くの事業をやりとげました。

それを行政の側から支えたのが森田さんでした。大会場から溢れるほど

の会葬者があつまる大葬儀となったのもかれの人徳だと言えるでしょう。

 彼が亡くなる数日前に奥さまから会いたがっているというご連絡を

頂いて病院に行き、長い時間を話し合いました。その中で「遺言らし

きもの」も聞いていたのですが、葬儀後から今まで、だれにも伝えられず

今も私の胸の内にしまったままになっています。 私が豪州から帰国した

2005年「あなたのことだから、帰国して何もしないはずはないで

しょう。何かをやるのでしたら手伝いますよ」と言ってくれたものでした。

日本がん楽会を作って副会長に入ってもらいました。がん勉強会を月1度

3時間の講座の時には区役所の部屋を借りてくださって助かったものでした。

がんサロンの在り方にも協力的でしたが、「美術展をやりたい」と私が

提案したときには・・なんでがん患者会が美術展なんや・・と多くの人が

思っただろうが、中島さんは「小ラ・ええな・・やろう、やろう」と賛成

してくれた。かれは、がん患者会の在るべき姿がよく理解できていたようです。

 2010年、美術展に協力してくださった北野の画廊へ一緒に挨拶に伺った

のが7月でした。北野を歩きながら、二人のそれまでの人生を語り合った貴重

な時間となりました。その際にかれが「このごろ、ちょっと胸が苦しくなる

んよ」ともらした。阪急春日野道駅近くに住む彼は、須磨に行くにも東灘に

行くに、常に自転車を愛用していた。有馬街道の坂を登って竹炭焼きにも行って

たほど丈夫だった。もちろん・・リンパ腫という辛い病気と抗がん剤による

ダメージを受けながらも、100%治癒していたと言ってよい体調だった。

 北野での楽しい語らいの日が1か月後に「肺がん」と言われたよ。毎月

病院に言って検査しているのに、これまでどうしてわからんかったのか?

と彼が質問してきたので、リンパ腫関連の検査ばかりしてきたのだろうから、

肺がんには気がつかなかったのだろう・・と答えました。リンパ腫と全く

関係のない小細胞がんによる肺がんでした。医師は2年間は・・とも言って

いましたが、わずかに半年でした。あの日から、早くも9年が経つのかと

思うと時の過ぎるのは早いものだ。いい人でした。律儀で笑顔がよく言い奴

だったな~~。 先ほど紹介した柿本さんは人生12回目のメスを体に入れ

たということですが、春にはゴルフを再開できるそうです。だれもが、いろ

いろなことと戦いながら生きています。

 私は地震が起こった時には、豪州に移住していました。私が全力を傾けて

作り上げた高校は、須磨校舎が類焼によって全焼しました。兵庫本校は、

わずかに傾いために、校舎としての使用禁止命令がでました。

校舎の筋向いのビルは根っこから倒れていましたし、校舎の横の道を隔てた

一帯は火に包まれてしまいました。両校舎とも震度7の上に建っていたの

でした。1.2年生は定時制高校の校舎を借りて授業を続け、彼らの卒業

と共に「閉校」となりました。 5年後にいただく約束だった退職金は

消えてなくなってしまいました。余りにも書くことが多すぎる阪神・淡路

大震災ですが・・。私にはこの二つの事実だけを書くにとどめたいのです。