中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(61)私を守ってくれたのはだれなのか

《世は不思議な縁によって繋がれている》

  ご成婚式でミッチーブームが起こり、パレード見たさにテレビを買ったときには、まさか1999年に平成天皇と、美智子皇后から、皇居内の御所にお招きをいただき親しくお話ができるなんて、それこそ夢にも思ってもいないことだった。

 それが、ご縁というものだろうか。一つ一つ乗り越えていく中で、人生に何が起こるか自分でさえわからない。

  この辺り、多少話が前後する。

    39歳の時、神戸市が「ファッション都市宣言」をした。そして各方面から素晴らしい講師を選んで「神戸ファッション市民大学」を立ち上げ、生徒募集があり私も応募した。週に一度の講義に150名ほどの生徒が集まり、熱心に受講した。その中でも私の興味を引いたのは「都市工学」の講座だった。ファッションというものは幅広い視線から考えないと見えてこない。服装のことだけではなく、美容店、理髪店、洋菓子、家具、靴、建築、内装などなど幅広い視野から考えるべきものだった。日本の場合は都市の美観から見直すべきなのだ。パリの街をみればわかるように、見事な都市計画の上に成り立っている。

そういう見事な舞台作りの上で、住民たちが,それらにふさわしいあり方を求め、自らも装っていくのだろう。

 長い期間の講座を終えて、「受講者たちがこのまま分かれてバラバラになるのはもったいないな。卒業生でグループを作ろうじゃないかという動きがあった。もともと5組ほどに別れていたので、それぞれから三人を選び、選ばれた人たちの互選で組織を作ろうということになった。会長に選ばれたのが私で、副会長に選ばれたのはチョコレートで有名なモロゾフ製菓の取締役で後に社長になられた松宮さんだった。そのごに、松宮さんが多忙で退かれた後に、若い柿本さんが副会長に就任した。

  当時1974年の月刊「神戸っ子」という雑誌の11月号、に写真入りで大きく紹介された。

 その記事を紹介すると

 【今年も残りわずか、今秋は神戸の街のあちこちでファッションの風がまきおこり、ファッションは市をあげての秋のページェントといった感じであった。昨年神戸市は初めて試みたファッション市民大学も予想以上の大きな反響を呼び、第一回卒業生が中心となってKFS(神戸ファッションソサエテイ)が誕生した。

「ファッションに関しての各分野から集まったひとたちが、企業サイドではない立場から何かをやろう」全国でも珍しい組織。その中心となり、事を進めて初代会長に選ばれたのは、 奥山有為朗さん。元町にデザインルームを持つ服飾デザイナーだ。ファッション、よくわかったようでいて、その実あいまいな。

「ファッションというのは、生活文化と流行だと思うのです。一年や二年で、ファッション都市化ができるものじゃない。それに神戸の現実を見極める謙虚さも必要でしょう。今は、ファッションへの理解と意識を深める広報活動に力を入れていきます」と頼もしい言葉が返ってきた】

 これを読んでいただくと、この随筆の著者のペンネームが分かってしまうが。

十一月号の記事と写真は、神戸っ子アーカイブで見ることが出来る。

(kobe-kobecco.com/archives/17149)

  このころ、三宮のセンター街を歩いていて、とつぜんに大きな眩暈に襲われた。最初は地震かとおもったが、周囲の人たちは平気で歩いているので、眩暈だと気がついた。二十歳すぎの時、九条病院の耳鼻科の医師が、いつかそんな時がやってきますから、その時は、脳に菌が入る直前の信号のようなものですから、一刻も早く手術が受けられるところを見つけておいてくださいと言われていた、あれだ!とおもった。

 その日のために、探しておいた耳鼻科までタクシーで行き、窓口で要件を言った。その耳鼻科は、待合室と、診療室がつながっていて、待合室で待つ患者さんは、治療のすべてが見える。遠方からくる人も多くいつもあふれるほどの患者がおられたが、医師は優先して診てくださった。

『今日、明日に死ぬというほどのことはないが、来週に手術しよう』と決まった。

   二十年前には、病名が分かっているのに、手術を受けることが出来なかった「真珠腫」というもので、6歳の時に池で溺れた後遺症で私を苦しめてきたものだった。医学の進歩でこうして手術を受けられる。細見先生は神戸大学病院の耳鼻科主任を辞して細見耳鼻科におられたが、若先生だった。

 手術は、顕微鏡下で行われるとてもむつかしいもので、時間がかかるぞと、告げられていた。場所が場所だけに、何が起こるかわからないが、放っておけない病気なのでやるしかないとも言われていたのだった。

 手術は6時間かかった。脳に達する骨の中を6歳のころから徐々に骨を溶かしながら症状が進んでいたのだから、奥のほうまで症状が進んでいるだろうと、言われていた。意識内手術で、わたしにいろいろと確認しながら進めていく。わたしは動かないように体を固定されていた。

 翌日、若先生は

『大変な手術だった。へとへとだよ。あんたの顔面神経が太くてね。それを切ればやりやすかったのだが、ハンサムのあんたの顔が歪んだら恨まれそうで、顔面神経を避けながらやるのが大変だった』とおっしゃった。

 耳の奥はとても複雑で、失敗すれば死ぬこともある。特にわたしの場合は、間一髪のところまで悪化していたのだからとおっしゃった。

 一日置いて、老先生が「鼻中間湾曲症」の手術をしてくださったが、鼻の骨をノミでガンガン削る音が頭に響いて辛いものだった。十日間で退院した。

 入院中には、KFSのメンバーが見舞にきてくれ、新しい仲間たちとの友情も広がった。店の縫子たち三人は競うようにきてくれるので気をつかった。

 それからしばらくして胃の調子が悪く、あちこちの病院に行ったが、「兵庫県がんセンター」を紹介された。この当時は、神戸大学病院の前にある小さなビルが「兵庫県がんセンター」だった。

 太い胃カメラを飲まされ、さまざまな辛い検査を受けた後に診断が出た。「胃がんの可能性がありますが、確定できません。今後毎月、胃カメラで調べましょう」という。

思えば当時のがん医療は、ずいぶんと遅れていたように思う。がんセンターに通ったのは数年にも及んだ。一年後には三か月ごとに胃カメラを検査に行くこととなり、そのたびごとに胃カメラを飲まされる。その映像を五人の医師と共に見るのだ。

『ほら、これがポリープでね、がんだと光ってくるのだけど、そうならないんだなー、不思議だな』

『先生、実はサルノコシカケ胃がんに聞くっていう話を聞いたので、岐阜県まで行って三十㌢以上もあるのを十個買ってきて、それをペンチで砕いて煎じて、お湯の代わりに飲んでいるのですが、それと関係があるのでしょうか』

 医師は、お互いの顔を見つめあい、うなずきあって

『それだね、それの効果で、がんを抑えているのだろう。そのまま続けてください』と言った。

 この話は嘘じゃない。県のがんセンターともあろうところが、当時はこの程度のレベルだったのだから馬鹿らしい。

それから三十年近くも経って、わたしは1992年に豪州・パースに移住したが、日本での最後の検査でも、

『あなたはポリープを抱えたままですから、あちらに行ってからも胃カメラ検査を受け続けてください』と念を押されていたのだから、その当時でさえ、胃ガン検診が遅れていたことを証明できる。豪州での検査のことは後に書く。