中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(22)私を守ってくれたのはだれなのか

 <真知子叔母の家に疎開する>

 大空襲によって隣近所まで焼けてしまい、住める状態ではなくなったので、真知子叔母の家に行こうと連れだったが、ハーさんはそのまま家に残った。市電は無事に動いていたので、市電で今里まで移動し、あとは歩いて叔母の家まで行った。

 真知子叔母の家の周辺はまったく無事だった。知代の家の辺りは、やられたのじゃないかと思うとマーちゃんが言った。

叔母たちは姉妹たちを、「マーちゃん」「ともチャン」と呼び合っていたので、僕もそれに倣って呼んでいた。優子叔母のことをみなは「ネーちゃん」と呼んでいる。

 マーちゃんが、ともチャンの家の辺りまで見に行ってきた報告では「あの辺りは全部焼けていた」と話していた。

その翌日、僕が家の外に立って通りを見ていると、ともチャンが、子供を背負って、ふらふらと、よろめきながら歩いてくるのが見えた。着ているものはボロボロで、顔も真っ黒だ。背負われているのは雄太で、このときが初対面だが、九歳年下の従弟になる。

 <ともチャンの、凄まじい空襲体験話>

 知代叔母は「着道楽」として、姉妹間では知られていた。素敵な着物をたくさん持っていたらしい。それらが一夜にして、すべてを失ってしまったと嗚咽していた。

 いつの時代でも、優れた着物は高価であり、人の心を捉えて離さない。叔母は当時、大阪北区の中心部に住んでいた。

 空襲警報のサイレンが鳴ったが、どうせ訓練だろうと思っていた。その内に周囲が騒がしくなったので窓を開けてみると空が真っ赤だった。逃げなくてはとおもったが、着物が気にかかる。どれを持っていこうかと迷っているうちに時が経った。

 辺りが静かになったので外を見ると、火の手が迫っているのが見えたので、結局は何も持たず子供を背負って飛び出した。

 一人の姿も見えず、周囲は燃え盛っていた。もうあかんと思ったときに消防車がきて、強い力で車に引っ張り上げられた。「なにをしてたんや、アスファルトが溶けて足を取られて大勢死んどる、もうちょっとで二人とも死ぬところやったぞ」と叱られたという。

 どこへ行ったらいいのかも判断できない。地下鉄の駅に退避して助かった人も多いらしいから、行ってみようと駅に行くと、駅には、焼け出されて、行くあてもない人たちがあふれていた。そこで二晩過ごし、翌朝、堺筋まで歩いたが市電は動いてなかったので、坂を上り上町筋まで歩いてようやく市電が動いているのを見てほっとしたという。市電を乗り継いで、今里までたどり着き、ここまで歩いてきたのだと話してくれた。

 アスファルト舗装が溶けて足を取られて死んでいった人たちのことを想うとぞっとした。どんな気持ちであったのだろうと想像していると、仏壇に吊られている「地獄絵巻」を思い出した。

 <死体を焼く現場を見て>

  大きくもない家に大人数はおれない。ラジオで情報を聞き、空襲から四日目に淡路まで帰ることになり、知代親子も一緒に疎開することになった。

 今里の叔母は、ここも次は危ない、やられるかもという。大人たちは今後のことを話し合った。

 優子叔母は、以前に住んでいた近くに新たに住まいを探して、引っ越そうと思うと言った。

 今里まで歩き、市電に乗った。

 市電が上六に着いたとき、駅の北側になる交差点の角地で、焼け残った木材の上にトタン板を何枚も乗せ、たくさんの死体を載せて焼いているのをみた。五十体ほどあったように思う。

多くの死亡者が出たので大阪市が対応できないのだろう。緊急の処置なのだろうと、市電の乗客たちが話していたが、ほとんどが焼け死んだようなので、二度も焼かれる人たちに手を合わせてみんなが拝んだ。

痛ましい現場を見てしまって、その時の情景がいつまでも忘れることが出来ない。

 <難儀だった淡路行き>

 通常なら六時間もあれば淡路島に戻れる。だがこの日は数倍の時間がかかった。

大阪の天保山からは出港しないということは情報で分かっていた。

省線で元町までいったが、中突堤から出港するはずの関西汽船の船が兵庫港からに変更になったという。

 乗客はだれも兵庫港なんて知らないから、どこをどう行ったのかほとんど覚えてないが、電車を乗り継ぎ、長い道のりをぞろぞろ歩き兵庫港にたどり着いた。 

 ようやく乗船できたのはいいが、この船は岩屋港までだという。普段は岩屋には向かうことはない。

 空襲に備え、灯火を消して航行するために最短距離の運航になるそうだ。須磨辺りまで陸地に近いところを航行して、最短距離で明石海峡を横断して岩屋に向かうのだ。

 深夜なのでバスは通っていない。岩屋からは歩いて志筑まで行くことになった。

家までの25キロほどの道のりを歩く。どれほどかかっただろうか、着くころには夜が

明けかかっていた。

 <伸太叔父の海軍入隊> 

 このころより二年前の昭和17年5月に伸太叔父が海軍を志願して入隊した。

小学高等科を卒業してミシン部品を作る三和工業会社で働いていた。会社の運動会を見に行ったことがある。従業員の家族も参加しての、とても楽しい運動会であった。そして、伸太さんは頼もしい人であり優しい人だった。

 軍国主義一色だった雰囲気の中で、だれもがお国のために役立ちたいと思わされていたものだった。

 17歳になるとすぐに海軍に志願したのだろう。多くの人が、のぼりを立て、街中でも列を作って軍歌を歌いながら海岸まで見送った。

海ゆかば」の軍歌がいまも忘れられない。

伸太さんは、入隊後しばらくは広島県の呉で訓練を受けていたが、半年後には「横須賀・砲術学校に入校した」と連絡があり、その半年後には面会の許可が出て祖母が一人で面会に行った。いつの場合も祖父は同行したことがない。

 伸太叔父の戦死の知らせがあったのは、大阪大空襲から二か月後であった。昭和20年の5月だった。「フィリピン・ルソン島クラーク地区方面において戦死」との知らせだった。

 弱冠20歳の時だった。砲術学校を出て軍艦に配属され、艦砲を操作する役割だったとおもわれる。面会が許されたころには、間もなく乗艦の予定が迫っていたのだろう。

 志願してから約一年後の乗艦だったのだろう。逆算すれば、訓練期間が約一年、実戦期間が約二年だったことになる。

 ルソン島沖では日々激烈な日米海戦が行われていて日本の新聞にも大きく取り扱われていたが、勝利の報道ばかりだった。

 戦死の場所がクラーク地区と特定されているのは、あるいは、上陸作戦に参加していたのかもしれない。 

 伸太叔父が戦死する2年前には、哲夫叔父がビルマで戦死している。26歳だった。たぶんだが、戦死の時期から思うにインパール作戦に参加していたのだろうか。哲夫さんは生まれた娘(さかえさん)に会うこともなく、ビルマの地に散ったのだった。

 11人も産んだ中で、最も頼りにしていた優秀な息子二人を失った祖母は、どんな気持ちだったのだろうか。その心中を想うと悲しすぎる。

 

国民学校五年生>

 

 昭和20年4月、五年生がスタートした。担任は軍隊帰りの若い滝本先生だった。

ある日の朝礼の時に(上半身裸で行くのかシャツを着ていくのか)と、みんなが迷ったときに、級長の安達君が(今日はシャツを着ていく)と言ったのでみんなそれに従った。

 運動場へ出てみると、ほかのクラスはみんな裸だった。当時、体を鍛える目的で朝礼時に乾布摩擦をするなどをしていたが、とくに寒い日などはシャツを着てよいことになっていた。

 朝礼が終わると滝本先生は、校舎の軒下に積まれていた薪一本を掴んで、「一列横隊!」と叫んだ。生徒一人一人の背中を薪で殴っていく。激痛が走った。この先生はいつもイライラしていた。軍隊帰りの最低の教師だった。

 一学期のあいだ、何度も空襲警報のサイレンが鳴り響いた。生徒たちは、集落別に家に帰る。街から出て田園の中の道を走っていくときが怖い。艦載機が追ってくる。

 家に戻り、高台から見ていると「艦載機」(航空母艦から発進したグラマン戦闘機)が、機帆船に機銃掃射を浴びせて、こちらに向かって来て反転して再び機帆船を攻撃して沈没させた。

当時の新聞に「少女が機銃掃射で殺される」というような記事が多かった。大阪での大空襲も恐ろしかったが、グラマンが低空で追って来て迫りくるのも怖い。グラマンの来襲は三度ほど経験した。

 我が家では祖父が傍の山に横穴を掘って防空壕と称していたが、あんなものは何の役にもたたない。戦後は物置として使っていた。