中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(14)私を守ってくれたのはだれなのか

 <伊勢神宮参詣>

伊勢神宮にお参りすることになった。父の弟がいよいよ戦地に向かうことになるかもしれないのでので、武運長久祈願のため、伊勢神宮参拝が急きょきまった。

本町六丁目を始発駅とする、近鉄(当時は近鉄ではなく、別の社名だったが数年後に近鉄となった)の宇治山田行き急行に乗るという。

 多くの人たちが一度は乗ってみたいと憧れている当時では有名な急行だった。上六駅はデパートもあり、当時の日本最初の駅ビルとしても有名であった。 

 叔母と哲夫叔父さんと三人で急行に乗り込んで座席に座ってから、二人が何か話し合って『ウイ朗、ちょっと待っていてナ、買い物を忘れたから、さっといってさっと戻ってくる』と、二人は僕を車両内に残して、プラットフォームを走っていった。

車内での食べ物でも買いに行ったのだろうと、のんびりと座席にすわっていると発車ベルが鳴り響き、電車はすべるように駅を出ていった。あわてて窓から外を見てみたが、もちろん二人は見えない。

 最後尾車両まで行き、車掌さんに向かって、ことの顛末を詳しく述べた。車掌さんは『これは急行だからね、終点の駅に着いたら、そこで待ちましょう、次の急行は一時間後の発車だから、向こうに着いて一時間待っていれば来るよ』と優しく言ってくださったので不安はなかった。慌てるでもなく、泣くこともなく、静かに待って一時間後に二人と会えた。

 二人のほうが動転していたようで『どれほど心配したことか』と、叔母は彼を強く抱きしめた。

 伊勢神宮はとても広くて清らかで尊厳な感じがした。なぜか私には五十鈴川の、きれいな小石の多さに魅かれた。生涯を通じて石に強い関心をもったのはこのときがきっかけかもしれない。

 内宮から外宮まで歩いたが、くたびれ果てて、後で何かを食べに行ったようだが、なにもおぼえていない。帰路では車窓から外の景色をずっと眺めていた。

 大阪に戻る車内では戦地に向かうだろう叔父のことをしきりに叔母が案じて、その話題がおもだった。哲夫叔父が、伊勢神宮への同行を優子叔母に頼んだ気持ちはよく理解できる。長女としても、だれからも一目置かれて信頼されていたのだから。同行できたのが幸せだった。

 (上六から宇治山田まで、本当に直行の急行列車が一時間おきに走っていたのか。私の思い違いではないかと、資料を調べてもわからない。

 近鉄百年史をつぶさに読んでも書かれていない。調べるのに疲れ果てた頃、近鉄本社の総務部に電話を入れた。当時のいきさつを丁寧に述べて、お尋ねしたところ、調査して後ほどお電話しますとていねいに言って下さった。)

 そして、翌日にお返事をいただいた。

『よくもまあ、83年も前のことをそこまで記憶されていたことに驚いています。当時に宇治山田駅までの直行の急行が一時間ごとに上本町六丁目の駅から発車しておりました。所要時間は時間帯でわずかに異なりますが、おおむね2時間10分でございました。特別な事情があったとはいえ、すごい記憶力ですね。頑張ってお書きください』

 

  さて、後日談になるが、哲夫叔父は、日本陸軍の史上最悪の戦略と言われる、ビルマで行われた「インパール作戦」に巻き込まれたのだとおもう。

 現在はミャンマーと呼ばれているが、当時は英国の植民地であり、ビルマと呼ばれていた。

 叔父の「戦死通告」には、戦死地ビルマと明記されていた。叔父と一緒に伊勢神宮に参拝したのが、昭和15年であり、戦死したのは昭和18年なのだ。

  四男だった哲夫叔父は1917年に生まれ、入営したのは1939年1月だったはずである。

 どういういきさつかが知らないが、1942年に淡路島の仮屋という地の來田さよこさんに入り婿として入籍している。

 さよこさんは優しい美人で戦後も何度かおうちまで伺ってお会いし、伊勢神宮にご一緒したことも話したが、あのときに、宇治川のきれいな小石を拾って「お守りにもってい って」と言って手渡せば命を守ることが出来たのではないかと、ふっと思った。

 二人の間には、1943年生まれの娘さんがおられるが、父と娘の対面がないままに、1944年ビルマにおいて戦死されたのだった。