《父との面会と大阪大空襲遭遇》
父の入隊後わずか二か月後に面会の通知が来た。祖母は、私と二人で行こうと決めたようだ。面会日は、3月13日だった。
前日から姫路に住まう祖母の甥(妹の息子)の家にいき、泊めてもらった。
朝、おかゆが出された。お粥の中に自分の目玉が映っていた。米がほとんど入っていないお粥だったのだ。米さえ手に入らない中での生活だったのだろう。
戦争激化と共に日本中が飢えていた。米麦を作っているわが家だって、収穫の多くを年貢に取られて、白米ご飯は一年に三、四度しか食べられない。多くは麦が三割も四割も入った麦飯だった。
祖母は、甥の家を辞してから『びっくりしたね、コメがないンだね』と呟いて、甥の家族の予想以上のひもじさと、お粥がショックだったようだ。
姫路城内に入るために、姫路駅まえ通りから歩いたが、目の前に大きく見える姫路城がきれいだなとも思わなかった。そういうことを考える心の余裕がなかったのだろうとおもう。
兵庫県の連隊は姫路城を連隊本部としていた。(陸軍の組織は安定しておらず、年ごとに連隊が組み替えられていて、この年の四月には神戸連隊と名を変えたようである。淡路島の洲本市、三原郡、津名郡の場合は、年によっては、和歌山連隊に組み入れられることもあり、岡山連隊に組み込まれるなどしていた。そのために、出征した兵士が、外地のどこに派遣されたのかは、戦場に行った兵隊から聴くか、戦死広報をみないとわからないありさまだ)
広い練兵場には兵士たちと家族が、それぞれに輪を作っていた。
祖母は作ってきた煮物が詰められた重箱を目の前に差しだして、さあ食べようと。うまいうまいと言いながら重箱を空にしたが、このとき父は「おまえを二年生の三学期に志筑に戻したのは、「きよの」が身ごもったと思ったからだ。去年の三月に男の子が生まれて九月に死んでしまったと、初めて聞く話をし、お前を何度も転校させてすまなかったと言った。そうか、僕に弟が出来ていたのか、他人事のように聞いていた。
父は、これからは、お前と(きよの)が一緒に住むことになるが、仲良くやってくれ、母と呼ばなくていいからな、と言って僕の頭を撫でた。
父は一週間後には、外地のどこかに送られるといった。どこの戦線になるかは全く分からないのだといっていた。
一時間だけの面接はあっという間に終ってしまった。父は『後をしっかり頼むぞ』といって走って去っていった。大勢の兵士たちの中にまぎれた父を見つけられず、城を後にした。
先に結果を書くと、朝鮮半島の三八度線近くの南側に位置する、「沙里院市」という所に送られて駐屯していたそうだ。
≪大阪第一回大空襲≫
姫路駅で、祖母は
『大阪へ行こうか』という。
『大阪のどこにいくのン?』
『決まっているやないか、お母ちゃんのとこや』
先ほど父と別れた悲しさなど忘れてしまったように喜んだ。
祖母は、僕がどれほど優子叔母を慕っているのかしっていて、会わせてくれるのだとワイワイと喜んだが、祖母には、今後の僕のことについて優子叔母と相談があったのかともおもう。
そのころ叔母は、住み慣れた西成区梅南通りから、上本町六丁目から市電で二駅東のところに住んでいた。歩いて上六に行ける距離だ。祖母は事前に新しい住まいの住所を知っていたようだが、僕は初めて知ったのだ。
上六には、日本初の 「駅ビル」が数年前に建設され、大阪だけではなく、日本の名所になっていた。
ハーさんと叔母は、日本全国に超有名になった上六駅近くに住もうと転居したのだろうとおもう。上六は、学校に上がる前に伊勢神宮詣のために叔母と、叔父と三人で急行電車に乗ったところだ。
「上六」は、駅ビルとしては日本最初の豪華さで、デパートもあった。数年後には鉄道も百貨店も「近鉄」と名前を変えられた。
市電を降りてすぐの裏通りにあるアパートの一階の奥の部屋が叔母の住まいだった。ここに住まいを移したということは、ハーさんは、元の運送会社で働いていないということだろうと思った。
叔母とは久しぶりの再会だった。二年生の時に大阪に転校したときは、父は一度しか叔母と会わせてくれなかったのだ。
久しぶりの嬉しい再会で、話に花が咲き、昼間の面会のことなどを長い時間語り合った。
ぼくは疲れて、ぐっすりと眠っていた。何事が起こっても気が付かないほどに眠りこけていた時に、とんでもない事が身の回りに起こっていたのだが、その騒動さえ気づかなかった。
当時の大阪では、毎夜のごとくに「空襲警報」が発令され、サイレンが鳴り響き、そのたびに住民たちは近くの防空壕に逃げ込んでいた。
そういうことが毎夜続くので、住民は「オオカミ少年」のようだなと笑っていたようだ。オオカミが来るぞと脅してもオオカミは来ないじゃないかと。
ところが、その日は違った。オオカミの大集団が襲ってきたのである。
後に「第一回、大阪大空襲」と名付けられた三月十三日の深夜から翌朝にかけて、B29爆撃機274機がグアム島から数回に分けて飛来し、大量の焼夷弾を投下したのだ。
最初の爆撃時に僕らは避難できなかった。
祖母は、『なんど起こしても、お前が起きないから逃げ遅れたんよ、もうちょっとして、みんなが戻ってきたときに逃げよう』と、責められた。
このような時にも、近所への気遣いがあって、逃げ出すのにもタイミングが必要だったようだ。
大阪の空が真っ赤に染まっていた
空襲警報が解除され、しばらくして、がやがやと、みんなが戻ってきたようなので、『今のうちじゃ』と、手を引かれて外へ出て驚いた。
空が真っ赤に燃えている。一面真っ赤なのだ。これまでに見たこともない恐ろしい風景が拡がっていた。
そのうちにまた空襲警報のサイレンが鳴り響く。もうオオカミ少年ではなく、サイレンは次の爆撃が近いことを伝えているのだから、大勢の人が、あちこちからどっと出てきて、防空壕に入れないので慌てふためいている人も多く見かける。
空一面に花火がひろがったように思えたが、花火のように美しく広がるのではなく、直線的に花火が降り注ぐという感じだ。
爆撃機から投下された爆弾が、途中で割れて多くの焼夷弾となって降り注ぐ。
日本の場合は木造住宅が多く、油を大量に含んだ焼夷弾を落とせば、住宅はすべて燃え尽きるだろうという米国の戦略なのだ。
消防員と思われる人が、近くに落ちた焼夷弾を持ってきて見せてくれる。直径は10センチ位、長さが80センチほどかと直感的に思ったが、本当の大きさは知らない。
(後日の調査で分かったことは、直径約七センチ、長さ約五〇センチ、重さ二,八キロで、ガソリンなどを含む油脂が詰められている。設計では日本家屋の屋根裏で横倒しになって火を噴くようになっていたらしい。)
不発だったという焼夷弾からは強烈な油の匂いが発散していた。真っ赤に燃える空を見ているだけでも怖いが、一晩中にわたって、近くにあると思われる陸軍の陣地から高射砲を発射する轟音が延々とつづいた。
こんな市内に陣地があるのだろうかとおもった。なんども波のように襲いかかる爆撃機に向けて発射されているのだろうが、高射砲はあの高度まで届かないのだよとだれかがいった。
ハーさんが、昔はこの辺りも大阪城の内だったのだよ。徳川家康との夏の陣で、真田幸村が最後まで踏ん張ったあたりの「真田山」に陸軍の陣地があるので、そこから高射砲を打っているのだろうと教えてくれた。
長い一夜だった。夜が明け、警報も解除された。
この夜の空襲では3987人の死者と、678人の行方不明者が出たと言われている。 東京では三日前の3月10日に大空襲があり10万人が死んだという。