中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

76年前の今日を思い出す

76年前は、とてもつらい思いをした年だった。

あのB29爆撃機が悠々と、これみよがしに高空を飛ぶ姿。高射砲の砲弾がはるか下までしか届かない現実を、青空の白昼に見ていた。

B29が何十機も大阪上空にやって来て、焼夷弾を投下し、多くの家を燃やし、多くの市民を殺した日の経験した。

あの年に起こったことを何もかも見ていた目撃者でもある。

私は十歳だったが、今もはっきりとした映像が頭から消えない。

8月15日は淡路島にいた。畑に行ってサツマイモをいくつか掘って持ち帰って直ぐに、あの放送があり、家族がラジオの前に座って聞いた。

今も脳裏から離れない、昨日見てきたような光景がある。

3月13日の大空襲から3日後、市電が動くようになり、大阪の今里の叔母の家から淡路に戻る時だった。

上本町6丁目の交差点、デパートの北筋向かいになる場所で、焼け残った木材を積み上げ、その上にトタンを置き、数十人と思われる、空襲による死者を

火葬にしている場面だった。今も生々しく思い出す。

大阪の至る場所で同じような光景があったのだろうと思われる。

あの空襲の夜空の色は、映画やドラマで見るようなものではなかった。

大阪中の空が真っ赤に染まっていた。

空からは、美しく思えるほどに焼夷弾が降り注いで来た。

日本の家屋が木造建築だと分かった上で、爆弾じゃなく、燃える焼夷弾を作り投下して燃やしたのだった。

多くの死者は、周囲が一気に燃えて逃げられずに亡くなった。

道路のアスファルトが熱で溶けて、逃げる人々の足を捉えた。

そんな恐ろしい夜を経験したのは、二度目の招集を受けた父が、外地に赴く前の最後の面会のために、姫路城の中にあった兵庫連隊ヘ行った帰りに大阪の叔母の家に立ち寄った夜に大空襲に遭遇したのだった。

初めの招集ので際に中国の戦線で戦ってきたあとも、軍事徴用で働いて(最後の徴用は、川西飛行場だった、この飛行場を知っている人は今は少ないが、甲子園球場から遠くない)いたのに、2度目の招集を受けたのだから運が悪かったのだろう。

元気な父と会ったのは、その日が最後だった。

戦争の思いではいっぱいあるが、今では誰も聞こうともしない。

過ぎ去ったことではなく、近い内に巻き込まれるかも知れないのに。

戦争は犠牲が多すぎる。