《がん難民」があふれるほどにいる実情》
炭素イオン線の2度にわたる照射も効果が表れず、彼女は救いを求めてあちこちの病院をさまよった。このような場合を「がん難民」という。
がんの再発や転移後、治療に行き詰まり感を持った患者が、救いを求めて病院をさまようのだ。
彼女が行き着いたところは、東京にある「がん研・有明病院」だった。彼女は私に「やっと眼球を摘出してくれる病院が見つかったのよ」と嬉(うれ)しそうに報告してきた。
通常、放射線治療した部位を外科手術することはめったにない。予後が悪いということを医師が知っているから、メスを入れることを拒むのだ。ましてや炭素イオン線を2度も照射された場所にメスを入れるなどは考えられない暴挙だと思う。
それ故に、彼女はあちこちを放浪して救いを求め続け、やっとの思いで願いを受け入れてくれる病院を探し出したともいえる。あまりの辛さから救いを求めるのだが、救済されることはほとんどないのだった。
こうして、眼球摘出されたが、彼女がより一層苦しむ結果になってしまった。眼球摘出した場所が化膿(かのう)し、痛みと、膿(うみ)の滲出(しんしゅつ)で彼女からQOL(生活の質)を根っこから奪ったのだ。
患者が求めたとはいえ、兵庫県立粒子線医療センター及びがん研・有明病院がやったことは、患者のためではなく、病院側の身勝手な研究のためだけではなかったのかと、思わずにはいられない。
彼女は神戸北区にあるアドベンチスト病院のホスピス病棟で息を引き取った。彼女の痛みと闘う姿をずっと見ていて、彼女の心の痛みとの戦いを想うと、悲しいが、医師はそんな彼女の、その後の姿も知らないのであろうから、心が痛むこともないのだろうと思う。
がん医療の在り方は、選択する患者も悩むが、医療者たちも悩むだろうと思われる。何がベストなのか、実はどちらも分からない。医師は、経験と指導書に依って判断する。
患者は、医師への信頼と、自らの希望に沿って選択する場合が多く、正しい選択かどうか分からない。
全てのがん患者に言えることだが、(自分の身体の中から、がん細胞さえ出してしまえば楽になる)と勘違いしていることだ。 がん細胞は、外からやってきたものではなく、自分の身体の中に発生した、(悪い細胞)なのだ。
食べると「がん細胞」を元気づけると考えて、食事を控える人もいるが、それも基本的には間違った考え方だと思う。いろんな間違ったことを主張する民間療法もある。がん知識が理解できていないために、藁をもつかむ心境で間違った方向に向かう人が多いのも、がんというものの、怖さを思うからだろう。
《 「日本がん楽会」の立ち上げ 》
私が豪州・パースで告知されたのは前立腺がんだった。
ところで、医師は患者にがんを告知するというのに対して、患者はどうして「がんを宣告された」というのだろうか。その言葉の裏に医師と患者の立場の違いと距離があると私は感じている。
患者は、がんと聞かされただけで、そこに死を感じ取ってしまう。だからこそ宣告されたと思うのだろう。患者と医師の立場の違いというのは治療を受ける中で何度も感じることになる。特にがん患者においてはそれが顕著になるのも無理はない。
2006年2月に粒子線治療を終え、4月には同じ医療センターを退院した患者たちで結成する患者会「はりま粒友クラブ」を立ち上げたことはすでに書いた。
だが粒子線治療を受けていない(がん患者)から多くの相談を受けるようになり、同じ医療センターの退院患者ばかりの集いだけでは対応しきれないことを知った。
「はりま粒友クラブ」の会長を続けながら新たに2007年2月に別の組織として「日本がん楽会(らっかい)」を立ち上げた。