中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(16)私を守ってくれたのはだれなのか

 「着いたぞ~」と父が大声で言うと、中から祖父母と叔父、叔母たちが出てきた。大阪の家を出てからから六時間以上経っていた。ウイ朗の新しい生活のスタートとなった。

 祖母にはこれまで大阪で会っていたが、百姓仕事で忙しい祖父には会った記憶はなかった。しかし、大阪へ芝居を見に行った時に二度会っているぞと祖父は言う。

もちろん叔父や叔母の四人には、一度も会ってはいない。家族でありながら初対面である。

 二歳年上の敏美は小学一年生であり、四月から三年生になる。

五歳年上の栄治は、誕生日が三月だから六年生になる。

七歳年上の優子も二月生まれで小学校校の高等科二年になる。

九歳年上の伸太は三葉工業というミシンの部品製作の会社で働き始めていた。

 

その夜、父は上機嫌だった。 だが上機嫌なのは父だけで、みんな静まり返っているという異常な雰囲気を、身に染み入るようにひしひしと感じていた。

 父は、酒が入るほどに声が大きくなり

 『お前ら、ウイ朗はこの家の跡取りなのだからナ、みんな分かっとるのか」と叫ぶように言った。祖父母とも

 『そうだよ、この家の竈(かまど)の灰まで、ウイ朗のものだからね』と言い、父の大声をなだめすかすばかりだった。

 初めて経験するこの異様な雰囲気は何だろうと考えるが、全く理解できない。

大阪では一度も見たことのない父の姿に思えたし、態度だった。

父は優子叔母の前では大声を出すことは一度とてなかったのだ。

 しんと静まり返った不気味な夜を忘れられない。

あとで分かったことだが、兄弟間では、怖い大兄いと恐れられていたのだ。めったに会うこともない弟たち妹たちにとっては、噂が先行していて鬼が戻ってきたように怯えていたようだ。

年が離れすぎていて、十一歳で家を出た父と交流のある叔父、叔母は、そこにはいなかった。ぼくが怖い大兄の息子だということだけで、拒否され、歓迎される雰囲気ではなかったのだった。

とても気まずい夜だったが、この夜の雰囲気がそのご、いつまでも僕が苦しめられる原因となったのだった。

伯父叔母たちは、自分たちが生まれ育ったこの家が、突然現れた兄貴の息子のものであって、自分たちはよそ者なのか、よそ者は、そっちの方だろうという雰囲気が、ずっと支配することになった。この時点で、もう運命が決まっていたといってよい。

 あくる日、父は朝早く大阪へ帰っていった。

七人目の家族として、有為朗は言われるままに過ごしているうちに入学式の日を迎えた。

   <国民学校一年生>

 昭和十六年に入学したのは「小学校」ではなかった。校門には「国民学校」と大きな字で書かれていた。

 入学式では校長先生が、長々とお話しされていたが、それは居並ぶ大人たちへの言葉であって、子供たちにはよく理解できなかった。

  入学式の日には祖父が来てくれた。担当が女性の稲本先生と決まった。厳しいおばさんという感じの先生であったが、祖父は稲本先生をよく知っているらしく、なぜか気に入らないようで、その日の夜「あの稲本のやつが」と、なんどもぶつぶつ言っていた。

 入学後はまず言葉にこまった。これまで大阪でしゃべっていた言葉と違うので馴染めない。父も叔母も、大阪では淡路弁を使っていなかった。

(淡路弁と言っても地域によって違うのだが)

 同級生たちと、何かを話そうとするときに二の足を踏んでしまう。自分のことを、僕と言わないで「わい」という。僕らは、「わいら」という。真似てみようかと思うがこれがなかなか言いづらい。

「わい小川や」と、近づいてきた級友が言ったので「ぼく奥山」というと、きょとんとしていた。

 まだラジオも普及してなかったころだから、小川君は「ぼく」という言葉を初めて聞いたのかもしれないなと思った。

 そういうことが十人ほど続くと「あいつ変わっとるで、どこのやっちぁ」となり、なかなか友達ができなかった。

 当時は田舎と大阪を結ぶ交流というものが少なく、まだラジオも普及していなかったし共通語というものがなかった。大阪弁といっても、わたしが育ったあたりは船場のような上品な言葉ではなかった。地方から出稼ぎに来ていた人たちも多く交じっていたので、雑な大阪弁だったが、後に漫才などで多用された河内弁のような荒い感じではない。

同級生たちは

「あんなー」「ほんでなー」「そうけ」「ほんまけ」を多用して話しかけてくる。

級友たちに、溶け込むのに時間がかかった。