中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(8)私を私を守ってくれたのはだれなのか

 <自己紹介>

 ぼくの名前は奥山有為朗(オクヤマ.ウイロウ)という。(名古屋名物の食べ物の、外郎(ウイロウ)のような名前だが、親父が【いろは歌】から名付けてくれたようだから、なんか意味があるんだろうな)と思っている。

自分の名を気に入っているわけじゃないが、名前ってだれもがそんなもんだろう程度に思っていた。

 因みに「いろは歌」を紹介しておこう。四十七文字の仮名を一回ずつ使って作られている。現在の中学校の国語教科書などにも掲載されているのもある。

「いろはにほへと、ちりぬるをわか、よたれそつね、ならむうゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑいもせす、ん」と子供たちは覚えた。

イロハカルタで、子供たちは遊びながら覚えたものだ。「あいうえお」より先に「いろは」を覚えたのだ。

 この四七文字を使って下記のような素晴らしい歌を作った人がいるが、だれが作ったのか判って

『色は匂へど 散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見し、酔ひもせず』

 

 父は、この歌を小学校で習ったのかもしれないが、歌の語呂の良さに惹かれて「奥山有為朗」と命名したのだろう。命名した父は知らなかっただろうが、後日に、踏切番のおじさんは、次のように紙に書いて、大きくなったらこれを読んでごらんと手渡してくれた。そこには【英国のオックスフォード辞典によると、

「有為」(うい)(仏教語)「因縁によって生じた生滅。変化してやまない現実のありさまをいう」「有為」(ゆうい)「才能があって、将来大きな仕事をする見込みがあること」 

 

  <父のはなしを書こう>

 父は、十一人兄弟姉妹の長男である。

政府が国政を強大にするために「産めよ、殖やせよ」運動をおこした。その時代に、祖父母が子作りに励んだ成果だとも言える。

 だから、ときの厚生大臣から通常の倍ほどもある大きな額縁に入った表彰状が贈られ、表の間に掲額されていたということだ。

 祖母は十六歳で嫁に来て、十一人も産みながらも年子の子はいない。

けれども父の場合、祖父母は未成年が子育てするような状態で、長男ということもあり大切にされ、甘えん坊として育ったのだろう。

祖父が二十三歳、祖母が十八歳の時の子供であるのだから。

父は太郎という

 父は小学四年を終了し、大阪へと出稼ぎに出た。十一歳のときである。

当時は、小学四年終了といえば威張っておられた時代だったようである。

 長女の優子は父の一歳半年下で、小学校は三年まで行っている。

この叔母のことは別のところで詳しく書きたい。

 次男の「新司」は、父とは五歳違いだ。勉強嫌いで、小学校二年終了で九歳の時に家を出た。

 当時は義務教育ではなかったので、小学校へ行かない子供が多い時代だったのだ。

 

志筑小学校は、明治七年八月に開校されている。

全国でも早期に設立された小学校の一つで、田舎ながら教育熱心な人がいたのだろうかと思われる。

 当時の日本は、識字率では世界トップクラスだったようで、明治以前に来日していた多くの宣教師たちが、日本人の識字率の高さに驚き、その旨を母国の本部に報告している記録がたくさん残されていることでもわかる。

 祖父母は、まだ学校のない時代であったが、読み書きができ、農家では珍しく新聞購読していたので識字率が高かったというのは事実だろう。士族の家では、家庭教育が進んでいたし、寺子屋で学ぶ子供たちも多かったのだろう。