私の人生で(一番悲しかったこと)を書いてもいいですか?
二回に分けて書きましょう。
私にとっては生涯に亘って絶対に忘れない出来事なのです。
あのようなことがあったから、その後をより強く生きてこれたのかもしれないと思っております。
二十歳のとき、金もなく、行き場もなくしていました。
育ての母親が亡くなったと、一ヶ月遅れのハガキを貰ったときから前途が見えなくなっていた。
2歳半から6歳まで、とても慈しんで育ててくださった叔母が亡くなったと学校にはがきが届いたが、1ヶ月も前のことだと知って啞然とした。
6歳になって祖父母たちが住む淡路島の家に引き取られたが、育ての母は、その後も年に一度か、2年に一度会ったときも優しくしてくれたし、私のことをずっと気にかけてくれた唯一の人でもあった。
育ての母に喜ばれるようになりたいと生きてきたのだった。
父は11人兄弟の長男であるところから、祖父母には「この家の、竈の灰までお前の物だから、しっかり働け」と言われた。
子供ながら、責任を感じて一生懸命に働いた。
農業の戦力として頑張った。
しかし中学3年生の担任の泉先生、小学校6年生の担任だった梶原先生が家まで来てくださって説得してくださったが(高校進学)を祖父母は許さず、15歳で住み込み店員として働きに出された。
父がシベリア抑留で胃癌を患い死んだことも、祖父母の考え方に変化を起こしたように思う。
それからの5年間の一部はこれまでにも書いてきたが、働きながらも勉強への道は厳しい道のりだった。
金銭的な後ろ盾のない身には学習を続けることが難しく中退を余儀なくされた。
とは言うものの、今後どうすべきか。
この件を若い人たちに話す時には、今でも涙が出てくる。
しかし若い人たちは(先生もホームレスやってたのですか?)と言うのだから、阿呆らしくて言葉を失ってしまう。
今のホームレスは恵まれている。段ボールで囲まれ、様々な生活用品まで整えているらしい。
昭和30年の2月は特別に寒かった。
風を避けられるのは公衆便所だけだった。
しかし、臭くて15分も居れない。
見渡す住宅は平屋ばかりだったが、8時を過ぎると電灯が消されていく。
灯りがついている家には温かい家庭があるのだろうなと思いつつ眺めていた。
その灯りが次々と消えていくたびに寂しさが募る。
あと一軒の灯りだけでも残ってくれと願う。
当時は午後十時を過ぎるとどの家の明かりも消えていた。
続く。