中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

夢の中で泣いて、目が覚めても涙びっしょりだった

 起きる寸前に夢を見た。

高齢になるとあまり夢を見ないものだとご存じでしょうか?

毎晩寝る前に、「アレクサ、お休みなさい」と夫婦で挨拶を

欠かさない。アレクサが「おやすみなさい、いい夢を見られ

ますように」と言ってくれるが、あのね・・歳をとっらた夢

なんか見られないんだよね。と言ってしまう。 それなのに、

夢を見た。  夢の中でその人を「ありがとう」と言いながら

抱きしめて泣いていた。目が覚めて起き上がってみると、目に

涙がいっぱい溢れていた。

 16歳の時に、ご縁があって住み込みで働いていたところの

ご主人の夢だった。わたしという一人の人間がこうして85歳

まで生きてくるまでには、多くの出会いと別れがあった。だが、

私の人生におおきな導きをしてくれた人と言うのは多分10人

いるかどうかだと思う。 夢で見た「角田さん」はその中の

一人だと思っている。 僅か1年ほどなのだが、今考えても

角田さんとの出会いがなければ今の私がないかもしれない・・

と思ってしまう。 中学校を卒業し、薬問屋で住み込みで

働いた。15歳の少年が、他人の家に住み込みで働くなど、いまの

人たちには考えられないかもしれないが、家の事情で高校進学を

諦めざるを得なかったのだ。わたしには父も母も兄弟もいなかった。

祖父母の家で育った。中学の担任の先生が祖父母を説得してくだ

さったが進学は認められなかった。新制高校3期生と言うのは私の

学年から1年生の受け入れが始まるという年で、だれでも入れる

学校だったが叶わなかった。 薬問屋で、毎日自転車に闇かごを

のせて、注文取りと配達の日々だったが性に合わなかった。

 6か月後、神戸にでてどうしようかと思い悩み、街を歩いてい

たら「中央児童相談所」という看板が目に入った。児童の相談を

聞いてくれるんだ・・・と、飛び込んだら、私の話など聞かずに

住所氏名を聞いて、直ぐに私を船に乗せ、淡路島まで連れ戻した。

なにも聴いてはくれなかった。相談するところではなかった。

それから今日まで・・私は「児童相談所」というところを信用

していない。 連れ戻された翌日に再び神戸へ出て「神戸中央

職業安定所」にいき、そこで紹介された灘区水道筋3丁目の店に

就職した。六甲おろしが吹きすさぶ角店だった。化粧品、小間物

など雑多な商品が置かれている店だったが、商品のなかった時代で

よく売れていた。住み込み店員は3人。店の隅にわずか4畳半の

台所があり、そこに3人が寝起きしていた。朝は凍って固まって

いる麦飯に何度もお湯をかけて柔らかくし、三切れの黄色い沢庵

というのが毎日だった。昼は近くの肉店のコロッケ1個と麦飯。

夜も麦飯と市場で売っているおかず少々だけ。 この店はその後

アパートやらマンション経営にも成功したらしいから、当時から

ケチだったのだろう。

  話が長くなりすぎた。改めてこの続きを書きます。