中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流の生き方(1)

人には誰でも、それぞれの生き方がある。
もちろん生き方の哲学を持たないで、日々を送っている人も少なくない。
しかし、せっかく生まれてきたからには、何らかの目指すものを持って生きたいのではないだろうか。
がんになってから、それまで以上に生きる目的を考えるようになったが、周囲のがん患者を見ていると、
がんになったから生き方を考えるとは限らないようだ。
私は自分の言うのも口はばったいが、少々辛い生い立ちとなった。
先日、84歳になる叔母から電話があり、「たけっちゃんは苦労したけど、その甲斐あって今は優雅に
暮らせていいね。やはりかわいい子には旅をさせろ、苦労は買ってでもせよと言う格言はほんまやな」と言う。
ものごころついた頃には両親と離れていた。2歳の時に両親が離婚し、父の妹に預けられて育った。
6歳になり、小学校入学を控えて、父の故郷の淡路島の祖父母に預けられることとなった。
父の兄弟は11人。だから一番下の妹と私では2歳しか違わない。
孫はかわいいと言うが、祖父母にとっては一番下の娘の方が可愛いのは人情と言うものだ。
そういうわけで、逆境の中で育つことになった次第である。
小学一年生から農作業や毎日の牛の世話などをしたが、3年生ともなれば労働力の一員として
働くことになる。当時のことだから、私一人がそんなしんどいことをしていたわけではなく、農家の
息子たちの中の4人に一人ぐらいは同じようなことをしていたと思う。
しかし、中学生のころからは、何十年も経ってから同級生の言うことによると、人一倍働いていたと
いうことだ。
教師が高校進学を祖父母に掛け合ってくれたが認められず、進学をあきらめ教師の親せき筋の
薬局に勤めることとなる。
その前年、終戦後5年間もソ連に抑留されていた父が舞鶴に帰還したが、そのまま入院となり
帰国当夜に胃がんの手術を受けたものだ。抑留生活が過酷だったのだろう。しかし、すでに胃がん
こぶし大に大きくなっており、摘出はしたがあとはどれだけ持つかというような状態だった。
私が薬局に住みこみで働き始めて3カ月目に、父は最後に故郷を見るために担架に乗せられて
生まれた家に戻った。父が危篤だと言うことで、一時帰宅を許された私だったが、その間も農作業の
ために田んぼで働いていたものだ。
田圃まで急を知らせに来てくれたが、父の死には間に合わなかった。
これが私のその後の運命まで変えることとなった。