人には誰でも、それぞれの生き方がある。
もちろん生き方の哲学を持たないで、日々を送っている人も少なくない。
しかし、せっかく生まれてきたからには、何らかの目指すものを持って生きたいのではないだろうか。
がんになってから、それまで以上に生きる目的を考えるようになったが、周囲のがん患者を見ていると、
がんになったから生き方を考えるとは限らないようだ。
私は自分の言うのも口はばったいが、少々辛い生い立ちとなった。
先日、84歳になる叔母から電話があり、「たけっちゃんは苦労したけど、その甲斐あって今は優雅に
暮らせていいね。やはりかわいい子には旅をさせろ、苦労は買ってでもせよと言う格言はほんまやな」と言う。
ものごころついた頃には両親と離れていた。2歳の時に両親が離婚し、父の妹に預けられて育った。
6歳になり、小学校入学を控えて、父の故郷の淡路島の祖父母に預けられることとなった。
父の兄弟は11人。だから一番下の妹と私では2歳しか違わない。
孫はかわいいと言うが、祖父母にとっては一番下の娘の方が可愛いのは人情と言うものだ。
そういうわけで、逆境の中で育つことになった次第である。
小学一年生から農作業や毎日の牛の世話などをしたが、3年生ともなれば労働力の一員として
働くことになる。当時のことだから、私一人がそんなしんどいことをしていたわけではなく、農家の
息子たちの中の4人に一人ぐらいは同じようなことをしていたと思う。
しかし、中学生のころからは、何十年も経ってから同級生の言うことによると、人一倍働いていたと
いうことだ。
教師が高校進学を祖父母に掛け合ってくれたが認められず、進学をあきらめ教師の親せき筋の
薬局に勤めることとなる。
こぶし大に大きくなっており、摘出はしたがあとはどれだけ持つかというような状態だった。
私が薬局に住みこみで働き始めて3カ月目に、父は最後に故郷を見るために担架に乗せられて
生まれた家に戻った。父が危篤だと言うことで、一時帰宅を許された私だったが、その間も農作業の
ために田んぼで働いていたものだ。
田圃まで急を知らせに来てくれたが、父の死には間に合わなかった。
これが私のその後の運命まで変えることとなった。