父の死に目にも会わせてもらえなかった悔しさが胸を突き上げた。
物心ついた時から父と暮らしたのは2年ほどしかなかったので、父がシベリアから帰還した時には
夢のような心地だったが、僅か一日で夢が消え、そして父とほとんど会えないまま別れの日を迎える
ことになった。
死に目にも会わせてもらえなかったと、その恨みの気持が祖父母に向かっていた。
私のことを真剣に心配してくれる人は、育ての親でもある叔母しかいなかった。
淡路島を離れようと決断し、父が死んで3カ月目のお休みの日に勤め先を飛び出して神戸へと向かった。
やはり16歳の子供だったのかと、当時を振り返って思うことが二つある。
どうして勤め先の親方に「やめる」と言えなかったのだろうか。教師の親せき筋でもあり、私を強く推薦
してくれた教師にも悪いことをした。やめると言えば祖父母に伝わり、反対されるだろうと考えたに違いない。
とにかく子供心に、淡路島を離れようと強く決心をした。6歳から9年間育てられた所だが、「跡取りだから
働きなさい」と農業の労働力として働いてきたが、父が死んだことにより、跡取り扱いをされなくなっていた。
言い換えれば、邪魔者だったのである。
そういう意味では、私が家出をしたことで祖父母は助かったと思う。父の末弟に跡を継がせる口実が
出来たからである。
家出をしたのは良いが、仕事はない。尼崎に住んでいた同級生を頼って行ったが、食糧難の時代と
あって3日以上はお邪魔出来ない。
とても危ないところだったが、野宿をする子供の私に悪い誘いをすることもなく過ごさせてくれたのが、
今考えても不思議なことだ。
あの頃は子供だったな~と思うことの二つ目は、どうしてよいのか分からなくて、神戸の児童相談所へ
相談に行ったことだった。
今の子供なら「児相」と言って嫌われる。子供ならだれも寄り付かない場所である。
純情な私には、児童相談所とは、児童が相談できる所だと思っていたのだ。
児童相談所へ、相談に入ったら身柄を確保され、その夜に淡路島から人が来て連れ戻されてしまった。
児童相談所とは、子供のためのものではなく、大人のためのものだったと初めて知ったのだった。
連れ戻され私だが、10月の天神さんのお祭りの日に家を飛び出した。
ここからが、私の人生勝負だった。保証人もなく、天涯孤独 (本当は父の兄弟が多いが) として
生きるために、強くたくましく生きなければならなかった。今の多くの16歳とは違って、悲壮な一人旅の
始まりだったのだ。