〔社会への一歩・就職する〕
卒業時が迫ってきて、就職先が問題だった。当時一組の担任だった東田先生の縁戚である馬場薬局に、住み込みで働くことになった。
卒業式が終わるとすぐに住み込んだ。一般の薬局ではなく、淡路島の津名郡一円に薬の卸商もやっていた。
わたしの任務は得意先の薬局、薬店(当時は許可されていた)を回り注文を受けて届けることだった。毎日、作業用自転車で二つのルートを交互に回る。前回注文を受けた薬や商品を籠に入れて配達する。
夜は、薬の薬剤配合の本を読んでいた。とても興味深く夢中で読み、ノートに書き写していたのだった。
父の呟いた「唐辛子の三番なり」という言葉がどうしてもひっかかり、店にあったコンドームを夜に取り出してみた。うわーっ、こんなに大きくなるのか、先についている小さな袋はなんだろう?
その日から、(おおきくな~レ)と、まじないをかけていたが、性欲というものを感じたのは五年後の成人式が終わってからだった。
(父、故郷に帰る!)
父が関西汽船の特別の配慮で、担架に乗せられて戻ってくるという。五月のことだった。父が戻って三日目に、一晩だけ家に戻る許可をいただいて帰った。二度目の出征をしてから4年目にやっと戻れた生まれ故郷に、小さくなった父が横たわっていた。
そのころ、町には医院は木村医院しかなかった。ずっと点滴を打たれ、膨れたような顔でぼくを手招き『ここを触ってみ』という。胃がんが摘出されたころに、再びボール大の癌が出来ているという。
術後まだ一年も経っていないというのに、がんが再び盛り上がってきていたのだ。
もっともっと父のそばにいて、優しくしてあげればよかったといま思う。いつまでも悔いの残る一日だった。
(父の死に目に会えず)
6月18日の朝、父が危篤だと薬局に知らせがあった。お暇をいただいて帰宅した。
父は激痛止めのモルヒネで眠っている。父のそばにいて、じっと父の顔を見ていたが、祖父が「鍬をもって(セドの下)の田んぼへ行ってこい」という。なぜか、この時期にまだ田んぼに稲が植えられていなかった。
言われるままに田んぼへ行った。一時間ほどして敏美叔母が「はやく帰っておいで」と上の道から叫んでいた。走って帰ったが、父の死に目に会えなかった。
父の葬儀は、涙も出なかった。悔しかった。悔しくて、悔しくて、情けなかった。
近所の人の手によって墓場に掘られた穴に、父が座って入っている坐棺が静かに降ろされていく。それをしっかりと見届け、目に焼き付け、ロシアも祖父も許さないとおもった。
その墓は、その後に墓碑が増えたので移動しているが、父の埋められた場所は、しっかり記憶している。
あとわずか一時間ほど、どうして祖父は僕を父のそばに居らせてくれなかったのだろう。
(父の葬儀のあと頭がしびれるほど考えた)
薬局の若主人が僕の苦悩しているのを感じたのか「これから毎週、日曜学校へ行っておいで、そのあいだ、仕事は休んでいいからね」と言った。
それまでは、休みと言えば月初めの「おついたち」だけだった。
次の日曜日の朝八時から「日曜学校」に行った。キリスト教会だけど「蔵」を改造したものではあるが、それなりに荘厳さを感じた。隣接して幼稚園が併設されていて、教会の左は牧師館になっている。
戻ってから、日曜学校は子供ばかりで面白くないと若主人にいうと、それじゃ来週からは十時から昼まで行ってきなさいと言われ、次週に初めてキリスト教の礼拝という儀式をしった。聖書を読み、牧師の説教を聞き、賛美歌を歌う。
日本基督教団という、たくさんあるキリスト教派の中で日本では一番大きな組織に属している教会だということを知った。
父の法事が行われた時に、祖母に教会の話をすると『耶蘇(やそ)なんかに行っていると磔(はりつけ)にされるよ』と厳しく叱られたが、いまどき磔にされるなどという祖母は古い人だなとおもってわらったものだ。
教会には毎週行った。賛美歌が心地よかったし、新約聖書も面白くよめた。聖書は文語体で書かれていた。文語体のリズムがよく「門を叩け、さらば開かれん」「求めよ、さらば与えられん」など、刺激的な言葉がどんどん頭に入っていくので、いくらでも読み進めた。
のちのちよく考えると、読書の楽しみを知らなかった僕が、年間に100冊も300冊も本を読むようになったきっかけは、この時からだと思う。
(天神祭りの賑わいと決意)
秋が迫ってきて、もう直ぐ「天神祭」がおこなわれる。この町には大きなお祭りが二つあり、十月一日の天神祭りと、十月一五日の八幡神社のお祭りと月に二度も大祭が行われていた。天神祭りは、育った家に近いところなので、その日は休みをいただくことになっていた。
天神祭りの日は毎年賑わう。どの家にも、親戚縁者が遠くから戻ってきたり、駆け付けてきたりする。
この日は、参道だけではなく、公道にまで香具師(やし)たちが店を広げて、客を呼び込むために大声を張り上げていた。
町にあるダンジリ八台だけではなく、隣町からもダンジリが出て、境内にはダンジリの太鼓の音が響き渡っている。小学生のころはダンジリに乗り込み太鼓をたたいたことがあったなとおもいだす。これだけダンジリが集まるのは久しぶりじゃな、と語らう声があちこちで聞こえる。
淡路島のダンジリは、大きくて赤い座布団が五枚積み重ねらたような形になっていて豪華だ。
近畿各地のダンジリを作っている会社がこの町にあり、四隅に釣られている提灯や、太鼓の周りを囲むように緞帳ふうの豪華な刺繡が施されている布(水引幕)、ダンジリを担ぐ親棒、小棒、脇棒が美しく磨き上げられている。
これも見納めかと、大きな楠に囲まれた境内の賑わいを眺めていたが、行かなければと境内から坂を下った。
(3か月考え抜いた決意)
自分自身の現実をしっかり把握することが大事だと思い、考えた。両親もいない、兄弟もいない。家族は多いようにみえても、だれ一人として、身元保証人になってくれる人はいないだろう。
終戦後まだ5年で、この混乱期の時代に、身元が確かでないものを雇うだろうか。
そして何よりも、僕の現実は、もう奥山家の跡取りという立場でなくなっているということだ。
この数年間の祖父母の一連の態度がそれを如実に表しているとおもう。もうこの家にはお前を必要としていないのだよと、はっきり言ってくれればいいのだけど、態度で示すから嫌味を感じてしまう。
自分さえいなければいいのだろう。厄介な自分が消えていなくなれば、みんな気が楽になるのだろうとおもった。頭では理解できるが、孤独になるのも辛い。
『いつまでもお前のことを守っているよ』
と言ってくれた育ての親の優子叔母は、今里の真知子叔母の今年八歳になる娘を引き取っているらしい。ぼくが九歳のころに子守をしていた子だ。
毎朝、庵の山の下にある「庵の下」の家までヤギの乳を取りに行って飲ませた子を、いまは優子叔母が育てているという、あの子も今年八歳か。
もう、お母ちゃんは、ぼくのことを忘れたのだろうかと寂しくなった。薬局に住み込んで働いていても、将来の見通しが見えない。私は消ええるしかない。
《自分を信じて進むしかない》
自分を信じる、これまでやってきた農作業だって無駄ではない。これまで十五年以上を生きてきたことすべてが肥やしになるはずだ。
学歴はないけれど、高校に進学した同級生も、自分より勉強ができないものがたくさん含まれている。
勉強は学校に行かずともできるはずだ。彼ら以上に努力すれば彼らに負けるはずはない。それができる自分になることだ、前進あるのみだと自分に言い聞かせるようにして、勇気を奮いおこして行動を開始した。
(家出して神戸に向かう)
その日のうちに考えていることを実行に移した。手に持っているものは、たった一つの父の形見である革製の中型トランクだった。その中には、十三重石塔の石も入れてある。
その夜は神戸の港近くで野宿した。辺りには野宿している人たちがたくさんいた。戦後五年を肌で感じた。
薬局に無断で出てきたことがとても気にかかる。東田先生に申し訳ないと思う。若主人に優しくしてもらったのにとおもう。しかし、誰に相談しても解決のしようがないと思えるのだから、これでよいのだ。自分を信じて行動するしかないと腹を括った。
(神戸中央児童相談所へいく)
神戸は何度も淡路への行き帰りで通ったが、あまり知らない町だった。中突堤と省線・元町駅周辺しか知らない。以前、父につれられて新開地タワーに登り、健康ランドのような所に連れていかれたことだけが、記憶の片隅にあるだけだった。
山手方面に向かってぶらぶらと歩いていると「神戸中央児童相談所」という看板が見えた。児童のための相談所か、こういう所もあったのだと思って中に入った。
住所氏名などを書かされ、記入が終わると、話も聞かずに腕をとって、さあ行きましょうという。着いたところは父の実家であり、三か月半前に父が息を引き取った場所だった。
児童のための相談所ではなかった。このことを僕は生涯忘れることがなかった。