中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(64)

 「寿司や」顛末など
 
 元町通り3丁目の商店街から山側に1本目の通りにあるビルの
2階に「デザインルーム・ナカハラ」が移転した。内装はすべて
自分で全部やった。ここでも家を建てた時の経験が生かされた。
元町駅から近いので便利になった。下山手通りの店では、従業員
は1人だったが、元町通りに移ってからは4人に増えた。
 西明石の「寿司や」の話を、時系列を無視して一挙に書いてお
きたい。
 最初は寿司職人に任せきりだった。彼らは流し職人であり、長続き
しないのが欠点だった。真面目な人もいたが、仕入れをごまかして
甘い汁を吸う悪い奴もいる。ある日、時々登場する「佐野」の叔母
さんがこう言った。「たけっちゃん、K叔母ちゃんのご主人が大国
殿を首になって仕事がないらしいんよ。西明石に読んで仕事をさせ
てやってもらえないかな」と。説明すると、父には11人の兄弟姉
妹がいた。兄弟は6人、姉妹は5人だ。佐野の叔母は3人目の姉妹
だが、私の育ての親の長女と似ていて、今でも親しくさせてもらっ
ている。この伯母のご主人も、これまでに何度も登場した。
 叔母夫婦の間には男一人、女二人の子供がいる。私の従兄妹に
当たるのだが、子供のころから、私のことを「おっちゃん」と呼び、
今日に至っている。この3人の子供たちの人生にも大きく関わって
きたので、わが子のように愛おしい。そのような叔母から、その姉に
なるK叔母の現況を聞かされたので、K叔母の家に行った。何と駅
前で、戸板の上にゴム紐を並べて売っていた。一人息子は有名な鉄
工会社に勤務していた。K夫婦に、西明石のすし店を任せることに
した。
 とにかく1年間は、なにも言わずにお任せします。1年経ったら、
利益を折半知ることでいかがでしょうかと言う話しになった。1年
が過ぎた。Kから何の音沙汰もない。一人息子の結婚が迫っていて、
資金をためるために頑張っているのだろう、と思い、黙ってもう半
年見送った。
 それでも連絡がないので、店に訪ねて話を持ち出した途端に「私は
ね、あんたの父親にひどい目にあったのよ」という、聞いてみると、
父が結婚する前辺りに、この伯母から金を借りたと言うのだ。良く聞く
と今の金にして5万円か10万円と言うところだった。
 突然に父の、しかも私が生まれる前の大昔の話を持ち出されて、
驚くと言うより、急に涙があふれてきた。父のことが誰からも褒めら
れたことはない。だからこそ、父の名誉のためにも私は頑張って、多く
の親せきに頼らず生きてきた。そして、K叔母の窮地を救ったのは私
なのだ。
駅前で戸板の上にゴム紐を載せておっていた当時と、寿司店のおやじと
してオーナー然としている今とは雲泥の差である。それなのに、いき
なり父の昔話を持ち出すK叔母の心根が悲しかった。私は気力まで萎
えてしまった。こんな叔母とは縁が切れてもいいと思った。僅か20
万円を10カ月月賦で支払ってもらうことにして店を後にした。この
件を、恨んだりしていない。ただただ悔しかっただけなのだ。K叔母
とは、その後、親せきの集まりで何度も会ったし、2年前には彼女の
お葬式にも行った。
 私が一番嫌いなことは、私だってほとんど一緒に生活したこともな
い父や母のことを、悪く言われることだった。だからこそ、人に後ろ
指を指されたくないと、一生懸命に生きて来たのだが、人間とは弱い
ものだ。