中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(62)

「神戸で店を出す」
 
当時、新幹線の山陽線が開業し、西明石駅の開業が近づいて
いたので、大好きだった「寿司」を始めようと考え、大変な
やりくり算段の上「寿司店」を新幹線 の西明石駅 近くに開業
した。寿司店は、職人に任せて、私は夜だけ少し店に顔を見
せる程度だった。大久保の工場をやめて、神戸に婦人服の店を
作ろうと奔走した。こんな風に書くと、資金が潤沢だったよう
に感じるだろうが、金などあるはずがない。多くの人は、金が
ないから出来ないと言うが、金があれば反ってできていなかっ
たと私は思っている。とにかく、やること、前に進むこと、信念
を持つことで、何かが成し遂げられる。しかし、お坊ちゃんで
、何の苦労もなく育った人は、そんなことをやらない方がよい。
できるはずがないからだ。草の根を食べても生きていける自信
がなければ、私のような生き方はできない。
 現在のJR 元町駅 東口の所に,鯉川筋がある、神戸大丸に続いて
いる道だ。鯉川筋を山の方へ歩くと県庁に続く下山手通りと交差
する。この交差点にあるビルの2階を借りて「デザインルーム・
ナカハラ」の看板を上げた。神戸新聞に「お手持ちの生地でお作り
いたします」と、週に1度広告掲載した。婦人服のオーダー店の
開業だった。まず大きな問題が3つあった。資金が大変だった。
ビルを借りるのが精いっぱいだった。ミシンは以前のものを使え
るが、裁断、製図などの大きなテーブルの注文もしなければなら
ない。何より、仕事がない。固定客を持っていないから、おいそれ
とは誰もやって来ない。そこで、当時は、生地を持っていながら
タンスにしまってある人が多かったので、掘り起こしにかかった
のだが、簡単ではなかった。
 ここまで読んで下さった方は、大きな疑問を持ったはずだ。
婦人服のオーダー店を始めるって、そう簡単じゃないからだ。
誰が、採寸、製図、仮縫い、縫製をするのだろうかと思ったに違い
ない。実は夜も眠らず、それらを習得して行ったのだった。経理
理業は頭を使えばできる仕事だった。養鶏業は、身体と頭が要った。
家を建てるには大工仕事を身につける必要があった。縫製業では、
資金作りに苦労し、ミシンを覚えるのに苦心し、営業面でも大変だった。しかし、お客様の婦人服を作るというのは、簡単なことではない。
多くの人は、専門学校へ通い、専門店に務めて技術を習得する。
それでも、自分の服さえ満足に作れない人が多いものだ。服飾専門
学校の学生の多くは、花嫁修業ぐらいに考えているので技術が身に
つかないのだし、教える方も実社会の経験がないから、人材は育て
られない。