「神戸で店を出す」
いたので、大好きだった「寿司」を始めようと考え、大変な
した。寿司店は、職人に任せて、私は夜だけ少し店に顔を見
せる程度だった。大久保の工場をやめて、神戸に婦人服の店を
作ろうと奔走した。こんな風に書くと、資金が潤沢だったよう
に感じるだろうが、金などあるはずがない。多くの人は、金が
ないから出来ないと言うが、金があれば反ってできていなかっ
たと私は思っている。とにかく、やること、前に進むこと、信念
を持つことで、何かが成し遂げられる。しかし、お坊ちゃんで
、何の苦労もなく育った人は、そんなことをやらない方がよい。
できるはずがないからだ。草の根を食べても生きていける自信
がなければ、私のような生き方はできない。
する。この交差点にあるビルの2階を借りて「デザインルーム・
ナカハラ」の看板を上げた。神戸新聞に「お手持ちの生地でお作り
いたします」と、週に1度広告掲載した。婦人服のオーダー店の
開業だった。まず大きな問題が3つあった。資金が大変だった。
ビルを借りるのが精いっぱいだった。ミシンは以前のものを使え
るが、裁断、製図などの大きなテーブルの注文もしなければなら
ない。何より、仕事がない。固定客を持っていないから、おいそれ
とは誰もやって来ない。そこで、当時は、生地を持っていながら
タンスにしまってある人が多かったので、掘り起こしにかかった
のだが、簡単ではなかった。
ここまで読んで下さった方は、大きな疑問を持ったはずだ。
婦人服のオーダー店を始めるって、そう簡単じゃないからだ。
誰が、採寸、製図、仮縫い、縫製をするのだろうかと思ったに違い
ない。実は夜も眠らず、それらを習得して行ったのだった。経理代
理業は頭を使えばできる仕事だった。養鶏業は、身体と頭が要った。
家を建てるには大工仕事を身につける必要があった。縫製業では、
資金作りに苦労し、ミシンを覚えるのに苦心し、営業面でも大変だった。しかし、お客様の婦人服を作るというのは、簡単なことではない。
多くの人は、専門学校へ通い、専門店に務めて技術を習得する。
それでも、自分の服さえ満足に作れない人が多いものだ。服飾専門
学校の学生の多くは、花嫁修業ぐらいに考えているので技術が身に
つかないのだし、教える方も実社会の経験がないから、人材は育て
られない。