中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(61)

「新しいスタート」
 
36歳の軽率で無責任な行動に、自己嫌悪になってしまうが、
その前後のことなど、実は複雑だった。結果としては、私の
人生腕試しのスタートとなったが周囲に迷惑をかけてしまった。
後悔してもはじまらないから、話しを前に進めよう。
 家を出てからには、食っていくための戦いを始めなければ
ならない。どんどん書き進めるが、そんなに簡単に物事がうまく
行ったのではなく、様々な困難を伴いながら成し遂げて行った
ものだ。読者の想像にお任せしよう。
 暫くは隠遁生活を続けたが、食べるために何かを始めなければ
ならない。明石市の西のはずれに「大久保」と言う町がある。
その当時は使われなくなっていた公民館を借りることに成功した
ので、ミシン工場にすることにして、あちこちに電柱に「従業員
募集」を200枚ほど張って回った。仕事はこれまでの伝手でなん
とかなるが、ミシン工養成に時間と手間がかかるのはいたし方ない。
 約2年間をそうして過ごした。その間、淡路の工場の仕事だけは
気になるので、事情が分かるように務めていた。なにしろ淡路の
場合は従業員数が多いだけに仕事量の多く、その確保が大変だ
からだ。元妻の弟が手伝ってくれるようになったらしく、神戸まで
の配送などの心配がなくなっていた。しばらくすると輸出用の仕事
はどんどん台湾に取られて急元気減ってきた。台湾では特区を作って、
日本からの工場進出を促していたものだ。
 当時、私にも話があった。ある会社から「台湾の工場を任すから
、行ってくれないか」と。少し心が揺れたがお断りした。淡路の
工場も仕事がなくなり、転業を考える時期が来ていた。時系列的に
どちらが先か後かを忘れてしまったが、当時縁あって知り合った
「富士プリーツ」と言う会社を元妻に紹介して、仕事をもらうように
手配した。プリーツスカートは、そのご大ヒットして長く仕事が続い
たし、収入面も以前にも増して良かったはずだ。私の大久保工場は、
従業員8人と少なかったが、なにしろ速成ミシン工ばかりなので、
良い仕事が受けられなく、経営的にもぎりぎりだった。転職を考えた。
私がやりかかったことは、神戸市の中心で店を出すことだった。
元妻が得意だった婦人服のオーダーを、私がやって見せることで、
私の力を彼女に見せたかったのだろうと思う。