「新しいスタート」
36歳の軽率で無責任な行動に、自己嫌悪になってしまうが、
その前後のことなど、実は複雑だった。結果としては、私の
人生腕試しのスタートとなったが周囲に迷惑をかけてしまった。
後悔してもはじまらないから、話しを前に進めよう。
家を出てからには、食っていくための戦いを始めなければ
ならない。どんどん書き進めるが、そんなに簡単に物事がうまく
行ったのではなく、様々な困難を伴いながら成し遂げて行った
ものだ。読者の想像にお任せしよう。
暫くは隠遁生活を続けたが、食べるために何かを始めなければ
ならない。明石市の西のはずれに「大久保」と言う町がある。
その当時は使われなくなっていた公民館を借りることに成功した
ので、ミシン工場にすることにして、あちこちに電柱に「従業員
募集」を200枚ほど張って回った。仕事はこれまでの伝手でなん
とかなるが、ミシン工養成に時間と手間がかかるのはいたし方ない。
約2年間をそうして過ごした。その間、淡路の工場の仕事だけは
気になるので、事情が分かるように務めていた。なにしろ淡路の
場合は従業員数が多いだけに仕事量の多く、その確保が大変だ
からだ。元妻の弟が手伝ってくれるようになったらしく、神戸まで
の配送などの心配がなくなっていた。しばらくすると輸出用の仕事
はどんどん台湾に取られて急元気減ってきた。台湾では特区を作って、
日本からの工場進出を促していたものだ。
当時、私にも話があった。ある会社から「台湾の工場を任すから
、行ってくれないか」と。少し心が揺れたがお断りした。淡路の
工場も仕事がなくなり、転業を考える時期が来ていた。時系列的に
どちらが先か後かを忘れてしまったが、当時縁あって知り合った
「富士プリーツ」と言う会社を元妻に紹介して、仕事をもらうように
手配した。プリーツスカートは、そのご大ヒットして長く仕事が続い
たし、収入面も以前にも増して良かったはずだ。私の大久保工場は、
従業員8人と少なかったが、なにしろ速成ミシン工ばかりなので、
良い仕事が受けられなく、経営的にもぎりぎりだった。転職を考えた。
私がやりかかったことは、神戸市の中心で店を出すことだった。
元妻が得意だった婦人服のオーダーを、私がやって見せることで、
私の力を彼女に見せたかったのだろうと思う。