中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(94)

(94)
手探りのなかで校舎の準備
 
校舎の準備と言っても、生徒が何人集まるかも分からないので、
どれだけの広さのものを用意すればよいのやら、何もかも手探
りの状態だった。
この時、私は、ある会社の不動産部門にいた山田全宏氏に事情を
話し、教室ができるような物件を探してくれるように依頼しまし
た。実は、山田氏とも奇異な縁があったのです。
その時より十年ほど前、私は神戸の元2丁目で「デザインルーム・
ナカハラ」という婦人服オーダーの店を、ビルの二階でやってい
ました。製図から裁断、「裁断」といっても舶来生地の着分に
切ってある限られた生地を柄合わせしながら裁断するのですが、
けっこう難しいものなのです。まして、初めてのお客様の仮縫い
の時は、本当に、もう手が震えました。スリップ一枚のご婦人と
相対するのも震えますが、ピンで肌を刺さないかと緊張して汗びっ
しょりでした。どうして婦人服店をしようとしたのか、今もって分
からないのですが、洋裁学校へも行かず、店に弟子入りしたわけで
もないのに、よくもやれたものだと思います。やれば何でもやれる
という信念と、一日二十四時間のうち、十六時間以上は働くという
努力が不可能を可能にしたのだと思います。
デザインルームを始めて四年目には、神戸のファッション・ソサエ
ティ(K・F・S)の会長をしていました。そして、会長を六年勤めま
した。このK・F・Sは今も活躍していて、昨年、(1990年)
十五周年記念の行事が盛大に行われました。
さて、その頃「元町会」というゴルフの会へお誘いがあり、私は
四十歳にして初めてクラブを握ったわけですが、その時のメンバ
ーの中に、外人バーを経営していた山田氏がおられたのです。
その後、外人バーをやめ、不動産をやっておられるらしいという
ことを風の便りに聞いていましたが、私が不動産の仕事をやるよ
うになり、再び出会うことになったわけです。
彼が、神戸でも有数の資産家の青山大志さんが経営する会社に入り、
青山社長の薫陶を受けていることを私は知っていました。以前の彼
とは、比べられないほど人格的に成長した姿がそこにありました。
私が彼に教室探しを依頼したことが、次の展開を呼ぶきっかけにな
るのですから、本当に、この世は不思議でおもしろいと思います。
彼は、日をおかずに、私に物件を世話してくれました。何と青山社
長の持ちビルの一つの五階でした。
ビルの入居者は一階から三階までが印刷会社、四階がケミカルシュ
ーズの会社でした。五階は約五十坪なので間仕切りをし、東側と西側
を普通教室に、中央を職員室とコンピューター教室にすることにし
ました。教室を借りたのは十一月だったでしょうか。
科学技術学園高等学校の大阪分室からも、本校からも校舎を見に
来られましたが、「こんな雑居ビルの五階ではだめだ」と言われ
ないかとドキドキものでした。
地理的条件としては割合によく、駅からもそれほど遠くなく、工場
街の端の方に位置していて、ビルの前はかなり広い公園であり、そ
の先は川になっています。唯一の心配は、隣が中学校になっており、
当校の生徒とトラブルを起こさないかということぐらいでした。
今考えると滑稽なことですが、「学校案内」や「入学案内」は、遅く
とも九月初旬までには中学校に向けて発送し、十、十一月には学校
説明会が催されていなければならないのに、「学校案内」が刷り上っ
たのは、やっと翌年の一月中旬だったのです。
その上、多くの資金があってやったことではなかったので、私の身体
の半分は、他の仕事をしていなければなりませんでした。ですから、
中学校への宛名書きなどは、その時の仕事相手と相談しながらやった
ものです。
教室の改装も、建築会社の都合で、開校ぎりぎりの三月中旬までとり
かかれないということでした。
がらんとした倉庫のような五階の五十坪に電話が一台ぽつんと置いて
ある。そこで、すべての準備を始めたのです。
 兎にも角にも教室の準備をするまでに進めたのもこれまでの付き
合いから生まれたものでした。人を大切にすることで、新しい何かも
生まれます。私は酒の付き合いはほとんどありませんが、人間として
深く付き合うことを心がけてきたことが、今「助け」となっているよ
うに思います。しかし、心配して足を引っ張る友人も少なくありませ
んでした。