中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(73)私を守ってくれたのはだれなのか

    《生徒が二人来た》

  学校と言っても、まだ形さえない。ビルの五階に50坪のがらんとしたコンクリートの空間だけである。 学校案内を送ってあるのだから、だれかが訪れるかもしれない。船曳氏に「この空間で、だれか電話番を兼ねた留守番をしてくれる人がいないかなあ」と相談してみた。

一人心当たりがあるから、紹介しようと須磨に住む鎌田さんを紹介してくれた。素敵な女性だった。一つの机といす、そして電話があるだけの空間だった。

  彼女が留守番に来てくれて一週間がたったころ

『今日二人の生徒がたずねてきましたよ』という。彼女は説明ができないので、住所と名前を聞き出してくれていた。

 訪ねてきた彼らはどのように思っただろう。雑居ビルの五階の空間が学校になるなんて、嘘だろうとおもったことだろう。俺たちはもっとすごい学校に入ろうと夢見てきたのに、なんだこりゃと、腹立しい気持ちで帰っていったことだろうとおもった。

 翌日、彼らの家を訪問した。

それまでに一件の電話もない、訪問者もない。彼らが初めての訪問者だ。私はうれしいが、彼らはうれしくないだろうと思うが、とにかく会って話してみようとおもった。

 住所は西宮市だった。どんな子供だろう、恋人に会う心境だった。先に行ったのは街中に住む、苦楽園中学の生徒で山川君といった。あまり大きくない家の台所でお母さんと向き合った。

『山川君はお留守ですか』

『いいえ、居るのですが、隣の部屋で寝ています』という。

昨日、希望を抱いて神戸まで行ったのに、学校なんてなかったぜ。

俺の夢は消えてしまったのだと、ふてくされて寝ていたのかもしれない。私は、起こさないでもいいですよと言い、お母さんに丁寧に説明をして家を出た。

 次いで、飯田君の家に行こうとしたのですが、番地が飛んでいて探すのに時間がかかり、やっとたどり着いたのは夕方近くだった。

 飯田君は家にいた。小柄ではきはきとものが言える生徒だった。

彼のお母さんは、彼の人柄を「友達が万引きしようとしたとき、誘われたが断って、友達もやめさせた」ことがあるという。彼に『勇気があるね、その勇気を持ち続けような』と話しかけると、はい頑張りますと返事があった。

この日の面談で、二人とも入校してくれそうな手ごたえを得た。飯田君には、仮合格と伝えておいた。お母さんも本人も大変喜んでくれたが、一番うれしかったのは私だろう。本校一番目の合格者だった飯田君には、入学式で生徒代表として、誓いの言葉を読んでもらった。

一人の生徒の人生を預かったようで、大きな責任を感じたのだった。

 

ある日に加古川の中学校から電話があった。こちらに来て説明をしてくれという。夜に出向くと、先生と古川君という生徒と父親がいた。わたしの説明を聞いた先生が

『失礼を承知で訊きますが、本当に高校卒業の資格が得られるのですか』

『そうです、これまで説明したとおりです』

『学校がつぶれるということはありませんか』

『私の命にかえて誓います』

『現在二人の生徒が決まっているということですが、古川君を入れて三人だけでも学校を続けるのですか』

『責任をもって彼を預かります』

お父さんから質問があった。

『息子は身体が不自由です。いじめられることはありませんか』

『そういう保証はできません。どんな生徒が何人集まるのかも分からない中で、何の保証もできません。ただ、一つだけはっきりと言えることがあります。私は、古川君を身障者として特別扱いはしません』

  その時に、過去の身障者との思い出話をした。大きな製材店の長男として育った広狩さんは、わたしより2歳年上だった。わたしが18歳の時に教会で知り合った。彼は、小児麻痺の上に脊椎カリエスを患い、15歳までは家から出ることもなく過ごしたという。もちろん、小、中学校にも行ったことがない。とても重度な障害を持っていた。

しかし、彼は非常な努力家で小さな自転車に乗れるようになると、隣町にあるキリスト教会に行けるようになった。彼と一緒に歩いていると、子供たちが

『猿が街を歩いているぞ』と石を投げてくるのだった。それでも彼は悠然としていていた。彼は父親が立ててくれた家に住んで、生活費を稼ぐために五百羽の養鶏を営んでいた。彼が27歳になったころ、見合いの話が来たという。相談に乗ってくれと言われたのでなんだと聞くと、縁談が来たのだよという。友人として喜ばしいことだが、心配もあって、もう一人の友人の中さんと共に彼の家に行った。そして

『単刀直入に聞くが、男としての役割が果たせるのか』と訊いた。

『そんなことを心配してくれていたのか、大丈夫だよ、自信があるよ』と。

 そして彼はこういったのだった。

『僕に来る縁談は、目が少し弱いとか、右手が少し不自由だとか、いつも障害者ばかりなのだよな。ぼくは、障害者としか結婚できないのかな~』

 そういう彼の言葉を聞いて友人と顔を見合わせたものだった。長いあいだ付き合ってきて、彼の心の中が全然見えていなかったことに気がついて恥ずかしかった。

『君は自分のことを身障者と思ってないのか』と訊くと

『全く思ってない』という。

『それなら、縁談の相手も自分のことを身障者だと思っていないのではないだろうか。君自身が相手を身障者差別をしているのじゃないか』というと、しばらくじっと考えて、なるほど、そうだなと笑ったが目に涙があった。。

 私たちは、彼を身障者とみてきたが、彼自身は自分をそうは思っていなかったのだということに気がついた。それ以降、身障者は自分のことをそう思ってないのだということを念頭に置いて身障者と付き合っている。という話を古川君たち三人に話したところ、よくわかりました、息子をよろしくお願いいたしますと頼まれた。

 3人目の生徒だが、一人ずつ重い荷を負うような感じでもあった。

たった3人の生徒を集めるのに、大変な日々だったが、2月に入ってやっと教室作りが始まった。東と西側にそれぞれ一教室と、

真ん中に職員室とコンピューター室を作ることにした。

五十坪の空間の形がよいために、間取りもとりやすく、窓が大きく、天井が高い格好の良い教室になった。工事は中西興業に依頼していた。

  問い合わせ電話があるたびに学校へ出向くことが多くなっていた。説明を求められる際に、いつも同じように教師や親たちから、わたしの自尊心を傷つけられるような言葉を浴びせられた。

 落ちこぼされた生徒たちに希望を与えたいと思って学校作りをしているのに、教師たちも親たちもそれが理解できないようなのだ。

そういう中で、やっと10人の生徒が集まったころ、とんでもない事態が発生した。