中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(126)

(126)
 中田君のこと(その2)
 
中田君も中学校時代、ほとんど出席していませんでした。それに比
べると、現在はよく出席していると思うのが正しいのです。しかし、
H 教師は、中田君のためを思うあまり注意を続け、彼の心を傷つけて
しまったことに気づかなかったのです。だんだんと態度が悪くなる彼に、H 先生は、おびえ、あきれ、学校からの放出を考えたようでした。
生徒を一人の担任に任せているとこのような間違いが起こってしまい
ます。学校という組織の最も恐ろしい部分かもしれません。
中田君の態度はその年、それほど改まるということはありませんでした。
学年の途中で担任を替えることも、クラスを替えることもできなかった
からです。当然、進級会議にひっかかりました。彼を進級させては、今後、他の生徒の出席状態が悪くなるし、一生懸命出席した生徒に申し訳ない、
教務規定通り留年にすべきだという意見が大半を占めました。開校三年
目の二月のことでした。
職員会議の留年決定に対して強権を使う形で三十名ほどの仮進級(進級
後の出席状態に一定の制約をつける)を認めさせた私も、中田君に関し
ては留年もやむなしと考えていました。その時、松田先生が、「今後は、
自分が面倒を見るから、なんとか中田君を仮進級させてほしい」と、職員
や私に頼み込んでまわったのです。彼の熱意に全員が同意しました。
中田君は、二年生より三年生、三年生より四年生と出席率を上げ、無事
卒業していきました。中田君は専門学校へ進学しましたが、その彼から
次のような報告を受けました。
「先生、専門学校へ入学してから一日も休んでないぜ!」
人は成長し続けることを、彼も証明してくれたのです。
川本君のこと川本君は県立高校を中退し、私たちの学校へ入学してきました。
真面目でおとなしい彼は、教師に表面上は反抗もしないし、言葉使いも丁寧な生徒でした。しかし、中学校、公立高校と不登校傾向が改善されず、公立高校では進級が危うい状態だったのです。
彼に関していえば、本人よりも母親により強く問題を感じました。クラスが変わると、その担任が気にいらないとか、何かいつも学校に不平不満を持っているようで、私の自宅にまで深夜、何度も電話がかかってきたものです。
この母親が、彼が三年生になった後半から大きな変化を見せ始めました。それまでに、母親なりにカウンセリングを受け、さまざまな苦悩を味わったようでした。母親とも何時間話したことでしょう。
延べ数十時間は話し合ったものです。彼が四年生の時、母親は保護者会の副会長として活躍して下さいました。
内気で陰気だった彼がバイクに乗り始めた時は、母親は心配されて私のところに相談に来られました。
しかし、すっかりたくましくなった彼は、アルバイトにも精を出し、一人でバイク旅行をするまでに変わってきたのです。川本君は卒業後、日本でも有数のコンピューター専門学校へ進学しました。
川本君のお母さんは、現在でも、私と会うたびに涙を流して喜んで下さいます。子どもが成長できたのはこの学校のおかげだと感謝されるのです。「いいえ、私はお母さんを変えるのに必死だったのですよ。
あなたが変わったからお子さんも変わったのですよ」と私は話します。お母さん自身が、苦しい戦いの後につかんだ喜びだったのです。
親が悲壮にならず、また教師が「生徒は学校へ来るべきもの」という考え方を改めた時から、不登校児に救いの手を差し伸べることができるのではないかと思います。
去っていった教師たち一学期が終わりました。とても長く感じた一学期でした。十八名だけで大切にされた一期生は、250名という数の二期生になめられてはいけないと思い、一年生の時にはしなかった服装をするので、新一年生がそれを真似るというようなこともありました。
しかし、何より私を困らせたのは教師たちでした。「他人の権利を侵さない」という唯一の規則しかなかったことも、教師たちを混乱させたように思います。私は、学校における規則は、ともすれば生活指導するうえでの教師のマニュアルではないかと言ってきましたが、規則がなかったり少なかったり場合には、教師は生徒の生活指導をしていくうえでの目途をなくしてしまうようでした。私が、それでも規則を多くすることも、処分権を教師に渡さなかったには、そのなかで教師たちの力量を上げていきたかったからです。
一学期の終わりに四名の教師が私の所へ来ました。
「今日限りで、私たち四名は辞めさせてもらいます」
「どうして?」
「ここは学校じゃないですよ。こんな生徒ばかり入学させた理事長の責任ですよ」
「どういうところが『こんな生徒』なんだね」
「服装違反しても罰がない。タバコを吸っても、何度も何度も話をするだけ。勉強しに来ている生徒なんか一人もいない。みんな遊びに来ているんですよ。これが学校ですか?」
「じゃ、学校ってどんなところだと考えているの?」
「立派な建物があって、運動場もあって、生徒が勉強しに来るところですよ」
「それじゃ聞くけど、この学校の生徒には可能性がないって考えているんですか」
「生徒の善と可能性を信じるという理念は立派だけど、彼らの善や可能性を信じろと言われても、とても信じられません。二年生だってあの程度じゃないですか」
「君たちは、教師だろ。今までも教師の看板を背負って生きてきたんだろ。どうして、生徒の可能性が見えないの?信じられないんだ?」
「それより、私たち四人は、この学校はあと半年も持たないと思っています。こんな学校が続けられるはずないじゃないですか」私は、この言葉を聞いて、あきれ果てて、そして腹が立ってきました。なんということだ。面接のとき、「理念、理念と言うほどのものじゃない。教育の原点として当然」と言った人も、この四人のなかに入っています。
ある公立高校で生徒指導をしていて、生活指導には自信がありますと言っていた高校免許一級の人もそのなかにいる。あとの二人も教職の経験者ではないか。その経験を買ってクラス担任をしている四人ではないか。
クラス担任が一学期で辞めるということはどういうことか、そのことがどれほど生徒にとって嫌なことなのかを、分かっているはずだ。そのうえ、あと半年でこの学校はつぶれます、と声をそろえて言うとは。生徒の可能性も生徒の善も信じられないなんて……。
「もし、半年してこの学校がつぶれていなかったら、なんて言うつもりなんだ」
「そんなことありません。必ずつぶれますよ。二学期に入ったら生徒はもっと荒れるでしょう。私ら四人のほかにも、もっと辞める先生もいるし、持つはずがありません」
「じゃ、生徒たちが見事卒業したら、その時、君たちはどこの学校にいたとしても教師の仕事を辞められるかね。その資格がないことになるよ……」
「その時は、もちろん教師を辞めます」
このようにして、四人の教師は去っていった。生徒たちは堂々と卒業していった。来賓の中学校校長が「長い教師生活で、最高の卒業式を見せてもらいました。感激しました」と言ってくださったほどの立派な卒業式でした。
あの時のあの教師たちは、今どこかで教師をしているでしょうか。このことを知ってどんな気持ちでいるでしょうか。
この四人に続いて、もう一人が辞めてしまった。彼は、「教師に自信がなくなったので、うどん屋をします」と言って去っていきました。
新しい教師このあとの夏休みが大変でした。まず、残った教師を研修して、徹底的に「理念」を血と肉にしておかないと、二学期からが大変なことになる。あの辞めていった人たちが言った通りになってしまってはどうしようもないではないか。教師をしっかり鍛えよう。そう思いました。
私にとって幸運だったのは、その夏に一〇〇名を超える教師が応募してくれたことでした。十日間教師の面接に費やしました。
そのうえ、私にもう一つの幸運がありました。公立高校で二十年の経験のある先生が、生徒の処分問題で他の教師と対立し、その高校を辞めてしまったのです。彼は、その生徒の担任がどれほど努力をしているのかを知っていたので、今一度、退学処分を待ってくれるよう努力しましたが、数で押し切られてしまったのだそうです。
退職した高校の校長が、彼を連れて私をたずねてこられました。事情を話されたうえ、「彼は、あなたの学校にぴったりだと思います。彼を採用してやってくれませんか」とおっしゃるのです。
「そのような考え方を持っている先生なら、ぜひ来てください」
彼が二学期からの戦力になりました。中出信義先生で、その後の、兵庫校の教頭です。しかし、彼の収入は以前の半分以下になってしまいました。それでも、「生徒のためだけ考えていたらいい職場なので、ストレスはありません」と彼は言います。今年、高校一年生になった彼の息子が「父の仕事はしんどい仕事みたいだけど、やりがいのある仕事みたいなので、僕もやってみたい」と中学の卒業文集に書いてあったと涙ぐむ。そんな彼が、その年の二学期から入ってきてくれたのは本当に助かりました。
二学期から六名の新任教師が入りました。やる気のある人たちばかりだったので、五人が辞めて落ちこんでいた残りの教師のいい刺激になったようです。