中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(124)

(124)
 宮田君と三田君事件(122)のその後
 
三田君は、重い心の障害は持っていませんが、プライドの高い彼は、
他の生徒の目の前でテンカンの発作が起こることをとても気にして
いました。そのことで自分がみんなからバカにされるのではないか
と恐れていました。だから、いつも挑戦的な態度を崩さなかったし、
その姿勢が、他の生徒からは、ひんしゅくをかっていたのです。
  偶然の事故とは言え目を負傷した宮口君のご両親に心から謝りな
 がら、私は、三田君を今後とも抱え込んでいきたいと思っていまし
 た。ところが宮口君のお母さんは、「先生、どうか気にしないで
 下さい。三田君は、息子が初めて作った親しい友だちなんです。
 あの子の片目が永遠に動かなくなっても、三田君を失うよりまし
 です。どうか、このことで三田君を責めないでやって下さい。お願
 いします。この学校へ入れていただいて、そして、三田君と親しく
 なって、あの子は変わったのです。あの子の不登校は、私たち家族
 にとって、大変不幸なことだったのです。毎朝、他の子供たちが学
 校へ行く時間になると暴れるのです。そして、みんなが学校へ行っ
 てしまった時間になると落ち着きを取り戻し、明日の朝のことを考
 える深夜になると、またまた暴れるという繰り返しでした。大阪大
 学へ三年間、週に一度、カウンセリングを受けに通いました。もう
 毎日が暗い暗い日々だったのです」
「そうでしたか。宮口君のあどけない顔を見ていると、そんな暗いイ
 メージはありませんね」
「この学校へ入ってからのあの子の変わり方に驚きました。朝、玄関で
 鼻歌を歌いながら靴を履いているのです。私は自分の目と耳を疑った
 ぐらいです。鼻歌を歌いながら出かけるなんて、もう何年もなかった
 ことなのです。小学校の三、四年生の頃を最後に、だんだん暗くなっ
 てしまったのです」
 「・・・・・」
「私は、次の日の朝にはまた、今までのあの子に戻るのではないかと
 心配で心配でならなかったのです。そしたら、次の朝も、あの子はルンル ンなんです」
「・・・・・」
「今は、オリエンテーションで短縮授業だけど、午後も授業があるよう
 になったらどうなるのかしら。また学校へ行かなくなるのではないだ
 ろうかと心配でした。午後にも授業があるようになってからも、あの
 子のルンルン気分は変わらなかったのです。これまでの、暗い毎日と
 比べて、どれほど明るく楽しい毎日に変わったことでしょう。あの子
 がこんなに明るく楽しい毎日を送れるようになったのは、三田君のお
 かげなんです。あの子の片目に替えられないほど、三田君に感謝して
 います。このことで学校の責任も問いません。仕方のないことだった
 んです。それより先生、このことがショックで学校へ行けなくなるこ
 との方が心配なのです。病院はいましばらくかかると思いますが、
 その後のことが心配です。どうか、力を貸して下さい」
  宮口君のご両親は、宮口君がせっかく長く暗いトンネルから抜け
 出したのに、このことで再びトンネルに入ってしまうことを案じて
 おられました。「暗いトンネルの中にいる間に私の性格も変わった
 のですよ」とおっしゃる宮口君のお母さんは、不登校の子供を持っ
 たことによって変わったのでしょうか。本当に素敵なお母様でした。
 幸いなことに、折れた骨にひっかかっていた眼球は十日ほどで元に
 戻り、「骨もしだいに治ってくるでしょう」と、まずはひと安心の
 診断でした。
 しかし、退院したものの、お母さんの案じたとおり不登校の傾向が
 出てきているということでしたので、私は次のように提案しました。
 「通院の帰り、宮口君とご両親そろって挨拶という名目にして学校
 に来ていただけないでしょうか」
  ある日、宮口君のご両親と宮口君の三人が学校の前に車を止め、
 職員室へ入ってこられました。彼は、その翌日から再び学校に戻る
 ことができたのです。
  かなり経ってから、私は彼に聞きました。
 「宮口君、あの時、どうして学校へ戻れるようになったんだい?」
「あの時、職員室にいっぱい生徒がいたでしょう。初めこの学校へ来れ
 たのも、あの時に来れるようになったのも、職員室の雰囲気がよかっ
 たからなんです。それに、ここの職員室はガラス窓で中が全部見える
 でしょう。そこがいいですね」
 最初に開校した長田校も、その次の年からの兵庫校も、すべて職員室
 は、ガラス窓になっています。これは、私自身がいじめられっ子だっ
 たことも理由であるのかもしれません。学校の職員室というものは、
 なぜ暗くて、外から見えなくて、入りにくいのだろうと、私は常に思
 っていました。だから、自分の学校作りに際しては、ためらうことな
 く外からまる見えの職員室を作ったのです。
 そのうえ、生徒の職員室への入室を原則的に禁止しない方針をとりまし
 た。ですから、休み時間になると、職員室は生徒であふれる状態だった
 のです。この方法は、教師にはおおむね不評でした。休み時間になって
 もゆっくり弁当が食べられないと、不満が多かったのです。
 しかし、いろんな意味で弱い生徒には好評でした。好評の証しは、いつ
 もいつも生徒で満員だったということです。職員室の中に入れない生徒
 は、窓ガラス越しに中をのぞいています。職員室へ入ってきたり、窓に
 くっついている生徒は、何らかのシグナルを出している生徒なのです。
 一学期に職員室へ頻繁に出入りしていた生徒が、二学期に入ってからは
 職員室へ入ってこなくなるということはよくあります。こんな場合は、
 その生徒がたくましくなったか、自分というものをしっかりもつことが
 できた証しともいえます。
  宮口君は二年生の夏、大学検定試験をすべて合格し、この学校から
 去っていきましたが、立派な大学生になったと聞いております。
 また、三田君はこの後も激しい性格は変わらず、トラブルメーカーを
 続けるのですが、三年生からテニス部に入ったことで転機がやってき
 ました。彼は、友人を得るためには辛抱をしなければならないことを
 悟ったのです。彼が、初めて辛抱することの大切さを知ったことは彼を
 大きく成長させ、アルバイトもできるようになりました。彼は立派に
 卒業し、社会人として働いています。
 不登校児の生徒は、毎年、十数名以上入学します。一口に不登校といっ
 ても、そのタイプはさまざまです。性格的には、几帳面な子どもが不
 登校になりやすいようです。ところで不思議なことに、日本以外の国
 では不登校児のことがそれほど深刻な問題となるほどではなく、ごく
 少数だと聞いています。
 なぜ日本で不登校が多発するのか、専門家でない私にはよく分かりま
 せんが、日本人の几帳面な性格が原因かもしれません。「学校へは行
 かなくてはならないもの」という思い込みを親や子どもが強く持って
 いることが、大きな原因となっているように思います。
 子どもの成長過程の中で、「子どもよりしつけ」や「子どもより学校」
 を優先してしまう親がいます。
「生徒より教科」「生徒より規則」を優先して考える教師が多いのと同
 じ図式です。心の大きい親や教師なら、その子どもや生徒の人格をす
 べてに優先して考えるのですが、私自身も若い頃そうであったように、
 若い親や教師は、子どものことを中心に考えないで、自分の考えを優
 先させてしまいがちです。規則より生徒が大切であり、しつけより子
 どもの方が大事だということを忘れ、自分の考え方を強制的に子ども
 に押しつけてしまうのです。不登校になる子どもの場合は、それなり
 の原因や理由があるわけですから、親や教師の側は、自分の考えを押
 しつけるのではなく、学校へ行きたくても行けないで苦しんでいる子
 ども の側に立って考えなくてはならないのです。
  私は、不登校の生徒に対しては、おおらかに接することを基本にし
 ています。ガラス張りの職員室や、職員室への立ち入り自由もその一
 つです。
 三分の一以上の欠席数があれば進級できませんが、早く卒業すること
 だけが大切なことではないことを話、「人生をのんびり行こうよ」と
 言っています。
 毎年十数名上の不登校児のうち、二、三名は精神的、神経的に重症
 であり、専門医にゆだねるほかありません。また、友人ができにくい
 タイプだったり、極度に勉強が嫌いな生徒もいます。しかし、ほとん
 どの生徒は、出席不良で教師を嘆かしつつも規定を何とかクリアーし、
 上級生になるに従って大きな変化を見せるものです。
 私の心に残る不登校児のうち、さらに二名を紹介したいと思います。