中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(125)

(125)
中田君のこと
 
中田君は神戸からかなり北へ入った氷上町出身でした。氷上町から
毎日通学するわけにはいかず、宝塚市の姉の家から通学していま
した。さめた感じの生徒で、どんなに優しい視線を彼に送っても、
彼からは冷たい視線しか返ってきませんでした。
一年生時の担任は松田先生で、この年は、担任の懸命の努力の甲斐
あってなんとか進級できました。
二年生時の担任は、教師の資格を持っているH 教師でした。この先生
は従順な生徒にはいいのですが、自分に反抗してくる生徒が許せな
かったようです。
ある夜、中田君のご両親から私の家に電話がありました。
「先生、今日の個人懇談の席上、H 先生から、『中田君は、学校を
やめて他の道を選んだらどうでしょう』って進路変更を催促された
のですが、理事長さんはどのように思われますか」「進路変更を本人
のために奨める場合もありますが、それは、本人が勉強より働く方が
好きだと自分から申し出た場合で、出席不良、態度不良で進路変更を
奨めるということは、私の理念に反します。明日、H 先生とよく話し
合っておきましょう」
H 先生によると、中田君の出席不良を初めは軽く注意するだけでし
たが、ますます出席状態は悪くなるし、注意するたびに態度が悪く
なり、最近では出席状況以上に態度不良児だということでした。
そのうえ、両親の学校への不信感が強く、両親とも話し合いが充分
にできない状態だという報告でした。
中田君本人に会ってみることにしました。しかし、私と向かい合って
座った彼は、ソファーにひじをついて横たわり、「何か用か」とでも
言いたそうな態度で、もう以前の中田君ではありません。入学した
当時そのような態度をとる生徒は少なくありませんが、二年生の二
学期に入ってから、入学時より態度が悪くなるという生徒はまれなのです。私は、中田君をこのようにさせたのは教師の側に責任があると判断し、H 教師だけに任せないで、一年生時の担任の松田先生に中田君のことを依頼しました。
念のために中田君の入学時の作文を読むと、中学校に対する不信感が
強く出ていましたし、両親の作文のなかにも、中学校の内申書のなか
にも、中学校への「不信感」が書かれていました。中田君の不登校
問題について、中学校側と両親との間に何らかのトラブルがあり、
中田君自身も学校への不信を深めたのだと思います。
不登校の原因を、生徒や親は学校側のいじめ対策に不備してしまい
がちだし、学校側は生徒の怠学のせいにしてしまう傾向があります。
しかし、不登校はもっと根深い問題であり、本人を含め本当の原因が
分かっていない場合が多いものです。しかし、親と学校がお互いに
自己の主張だけをし、本人を忘れてしまっては、もっと難しい局面
へ本人を追い込んでしまうものです。
中田君も中学校時代、ほとんど出席していませんでした。それに比
べると、現在はよく出席していると思うのが正しいのです。しかし
H 教師は、中田君のためを思うあまり注意を続け、彼の心を傷つ
けてしまったことに気づかなかったのです。だんだんと態度が悪く
なる彼に、H 先生は、おびえ、あきれ、学校からの放出を考えたよ
うでした。
生徒を一人の担任に任せているとこのような間違いが起こってしま
います。学校という組織の最も恐ろしい部分かもしれません。
中田君の態度はその年、それほど改まるということはありませんで
した。学年の途中で担任を替えることも、クラスを替えることもで
きなかったからです。当然、進級会議にひっかかりました。彼を進
級させては、今後、他の生徒の出席状態が悪くなるし、一生懸命出
席した生徒に申し訳ない、教務規定通り留年にすべきだという意見が
大半を占めました。開校三年目の二月のことでした。
職員会議の留年決定に対して強権を使う形で三十名ほどの仮進級
(進級後の出席状態に一定の制約をつける)を認めさせた私も、中田
君に関しては留年もやむなしと考えていました。その時、松田先生が、
「今後は、自分が面倒を見るから、なんとか中田君を仮進級させてほ
しい」と、職員や私に頼み込んでまわったのです。彼の熱意に全員が
同意しました。
中田君は、二年生より三年生、三年生より四年生と出席率を上げ、無事
卒業していきました。中田君は専門学校へ進学しましたが、その彼から
次のような報告を受けました。
「先生、専門学校へ入学してから一日も休んでないぜ!」
人は成長し続けることを、彼も証明してくれたのです。
川本君のこと川本君は県立高校を中退し、私たちの学校へ入学して
きました。
真面目でおとなしい彼は、教師に表面上は反抗もしないし、言葉使い
も丁寧な生徒でした。しかし、中学校、公立高校と不登校傾向が改
善されず、公立高校では進級が危うい状態だったのです。
彼に関していえば、本人よりも母親により強く問題を感じました。
クラスが変わると、その担任が気にいらないとか、何かいつも学校に
不平不満を持っているようで、私の自宅にまで深夜、何度も電話が
かかってきたものです。
この母親が、彼が三年生になった後半から大きな変化を見せ始めま
した。それまでに、母親なりにカウンセリングを受けたり、さまざま
な苦悩を味わったようでした。母親とも何時間話したことでしょう。
延べ数十時間は話し合ったものです。彼が四年生の時、母親は保護者
会の副会長として活躍して下さいました。
内気で陰気だった彼がバイクに乗り始めた時は、母親は心配されて私
のところに相談に来られました。
しかし、すっかりたくましくなった彼は、アルバイトにも精を出し、
一人でバイク旅行をするまでに変わってきたのです。川本君は卒業後、
日本でも有数のコンピューター専門学校へ進学しました。
川本君のお母さんは、現在でも、私と会うたびに涙を流して喜んで
下さいます。子どもが成長できたのはこの学校のおかげだと感謝され
るのです。「いいえ、私はお母さんを変えるのに必死だったのですよ。
あなたが変わったからお子さんも変わったのですよ」と私は話します。
お母さん自身が、苦しい戦いの後につかんだ喜びだったのです。
親が悲壮にならず、また教師が「生徒は学校へ来るべきもの」という
考え方を改めた時から、不登校児に救いの手を差し伸べることができ
るのではないかと思います。
去っていった教師たち一学期が終わりました。とても長く感じた一学
期でした。十八名だけで大切にされた一期生は、250名という数の
二期生になめられてはいけないと思い、一年生の時にはしなかった
服装をするので、新一年生がそれを真似るというようなこともあり
ました。
しかし、何より私を困らせたのは教師たちでした。「他人の権利を
侵さない」という唯一の規則しかなかったこたも、教師たちを混乱
させたように思います。私は、学校における規則は、ともすれば生活
指導するうえでの教師のマニュアルではないかと言ってきましたが、
規則がなかったり少なかったり場合には、教師は生徒の生活指導をし
ていくうえでの目途をなくしてしまうようでした。私が、それでも
規則を多くしたり、処分権を教師に渡さなかったには、そのなかで
教師たちの力量を上げていきたかったからです。
一学期の終わりに四名の教師が私の所へ来ました。
「今日限りで、私たち四名は辞めさせてもらいます」
「どうして?」
「ここは学校じゃないですよ。こんな生徒ばかり入学させた理事長の
責任ですよ」
「どういうところが『こんな生徒』なんだね」
「服装違反しても罰がない。タバコを吸っても、何度も何度も話を
するだけ。勉強しに来ている生徒なんか一人もいない。みんな遊びに
来ているんですよ。これが学校ですか?」
「じゃ、学校ってどんなところだと考えているの?」
「立派な建物があって、運動場もあって、生徒が勉強しに来るとこ
ろですよ」
「それじゃ聞くけど、この学校の生徒には可能性がないって考えて
いるんですか」
「生徒の善と可能性を信じるという理念は立派だけど、彼らの善や
可能性を信じろと言われても、とても信じられません。二年生だって
あの程度じゃないですか」
「君たちは、教師だろ。今までも教師の看板を背負って生きてきた
んだろ。どうして、生徒の可能性が見えないの?信じられないんだ?」
「それより、私たち四人は、この学校はあと半年も持たないと思って
います。こんな学校が続けられる
はずないじゃないですか」
私は、この言葉を聞いて、あきれ果てて、そして腹が立ってきま
した。なんということだ。面接のとき、「理念理念と言うほどのも
のじゃない。教育の原点として当然」と言った人も、この四人のな
かに入っています。
ある公立高校で生徒指導をしていて、生活指導には自信がありますと
言っていた高校免許一級の人もそのなかにいる。あとの二人も教職の
経験者ではないか。その経験を買ってクラス担任をしている四人では
ないか。
クラス担任が一学期で辞めるということはどういうことか、そのこと
がどれほど生徒にとって嫌なことなのかを、分かっているはずだ。
そのうえ、あと半年でこの学校はつぶれます、と声をそろえて言う
とは。生徒の可能性も生徒の善も信じられないなんて……。
「もし、半年してこの学校がつぶれていなかったら、なんて言うつも
りなんだ」
「そんなことありません。必ずつぶれますよ。二学期に入ったら生徒
はもっと荒れるでしょう。私ら四人のほかにも、もっと辞める先生
もいるし、持つはずがありません」
「じゃ、生徒たちが見事卒業したら、その時、君たちはどこの学校に
いたとしても教師の仕事を辞められるかね。その資格がないことに
なるよ……」
「その時は、もちろん教師を辞めます」
このようにして、四人の教師は去っていった。生徒たちは堂々と卒業
していった。来賓の中学校校長が「長い教師生活で、最高の卒業式を
見せてもらいました。感激しました」と言ってくださったほどの立派
な卒業式でした。
あの時のあの教師たちは、今どこかで教師をしているでしょうか。
このことを知ってどんな気持ちでいるでしょうか。
この四人に続いて、もう一人が辞めてしまった。彼は、「教師に自信
がなくなったので、うどん屋をします」と言って去っていきました。
新しい教師このあとの夏休みが大変でした。まず、残った教師を研修
して、徹底的に「理念」を血と肉にしておかないと、二学期からが大
変なことになる。あの辞めていった人たちが言った通りになってし
まってはどうしようもないではないか。教師をしっかり鍛えよう。
そう思いました。
私にとって幸運だったのは、その夏に一〇〇名を超える教師が応募し
てくれたことでした。十日間教師の面接に費やしました。
そのうえ、私にもう一つの幸運がありました。公立高校で二十年の経験
のある先生が、生徒の処分問題で他の教師と対立し、その高校を辞め
たしまったのです。彼は、その生徒の担任がどれほど努力をしている
のかを知っていたので、今一度、退学処分を待ってくれるよう努力し
ましたが、数で押し切られてしまったのだそうです。
退職した高校の校長が、彼を連れて私をたずねてこられました。事情
を話されたうえ、「彼は、あなたの学校にぴったりだと思います。
彼を採用してやってくれませんか」とおっしゃるのです。
「そのような考え方を持っている先生なら、ぜひ来てください」
彼が二学期からの戦力になりました。中出信義先生で、その後の、
兵庫校の教頭です。しかし、彼の収入は以前の半分以下になってし
まいました。それでも、「生徒のためだけ考えていたらいい職場な
ので、ストレスはありません」と彼は言います。今年、高校一年生に
なった彼の息子が「父の仕事はしんどい仕事みたいだけど、やりがい
のある仕事みたいなので、僕もやってみたい」と中学の卒業文集に
書いてあったと涙ぐむ。そんな彼が、その年の二学期から入ってきて
くれたのは本当に助かりました。
二学期から六名の新任教師が入りました。やる気のある人たちばかり
だったので、五人が辞めて落ちこんでいた残りの教師のいい刺激になっ
たようです。