中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(77)私を守ってくれたのはだれなのか

  《NHKの取材申し込みがあった》

まだ一年生の夏休みのころだが、井戸君のことを書きたくて、大きく4年も飛んで書いてしまった。昭和59年8月に話を戻そう。

NHK神戸放送局からは8月の初めから、取材の打診があったが、サンテレビの時の失敗から、今回はじっくり取り組もうと、ディレクターの阿部さんと教育談義を重ねるところから始めた。

阿部さんとは教育を考える点で一致するものがあるように思えて、お盆過ぎに教室で話し合いをした。

 彼は 

『昭和三十年代の後半から、学校の民主化が逆方向に進み出したような気がします。管理主義は国の施策のように言う人がいるけれど、それ以前に教師の力量が下がってしまったのではないかと考えています』 

と、教育現場の管理主義の広がりを憂いながら、次のように言った。

『裁くことより、育てることを実践しようとしている、神戸暁星学園の教育方針に新しい息吹を感じています。このような教育方針は当たり前のようであって、なかなかできないものです。

公立では実現できないでしょうし、私学でも、人気を気にすると(裁き)が優先してこんな教育はできないでしょう。 学校を経営する人が、よほどしっかりした哲学を持っていないと、楽をしようとする教師集団に巻き込まれてしまうでしょうね。この教育方針を貫くのはとても大変だとは思いますが、頑張ってください』

阿部ディレクターには、いろんな学校の教育現場の話を聞かせてもらい、教育についての意見交換もしたが、最も気の合う人だった。

 その結果、彼と生徒たちとで十分に話し合ったうえで取材を認めようと決めた。

       《二学期になって》

学校にとって二学期の初めが一番むつかしい時期だと言われる。 長い夏休み期間中に、生徒たちは自由奔放の環境に置かれやすく、さまざまな出会いや、経験をする中で、飛躍的に成長する生徒もいれば、崩れていく生徒もいるからだった。

 それよりも、わたしは生徒が戻ってくるかどうかも案じていた。二学期の最後に行った奥津での学習実習での出来事が、生徒間ではわだかまりが残っているのが心配だったからだ。

 戻ってきて当たり前だとは思えなかった。わずか18人の生徒の半分が戻ってこないという事態まで視野に入れて考えていたのだった。 結果的には、4年後の卒業時に、想い出特集アンケートをしたところ、奥津での学習実習が第一位だったのだから。生徒たちは、奥津での体験を通じて、それぞれに深く考えることが出来たのだろうと思う。

 彼らは、一段と日焼けして戻ってきたのだった。お互いに再会を喜び合っている姿を見て、この学校を作ってよかったという感慨がわいてきた。彼らは、この学校を必要としているのだと改めておもった。

     阿部ディレクターと、生徒全員が話し合った。教師は一人も入らないで、生徒たちに任せたのだった。

生徒が結果報告に来た。

『あのおっさんに協力するわ』 だった。

生徒たちも、安倍さんの人格にひかれたのだと思う。でも、いろんな質問が出たらしい。「ギャラはなんぼくれるネン」とか「ギャラなしだったらあかんでー」とか。 そういうやり取りがあって、取材を受けることに同意した生徒たちに成長した姿が見られた。

 安倍さんは、生徒机を並べて業に参加した。一週間も席を並べる中で、生徒たちを観察していたようで、取材に自信を持ったようだった。 安部さんの取材姿勢は興味本位でないことも確かめられた。

    9月のある朝のニュースの前の十分間、近畿一円に

【毎日通う、通信制高校】 というタイトルでのテレビ報道番組が流れた。

     雑居ビルが映し出され、そこに通う生徒たちの姿、授業風景、体育の授業風景などが、アナウンサーのナレーションともに映し出されたのだ。

 この報道は、ものすごい反響を呼びました。朝8時前の放送であり、再放送が午後一時過ぎにもあって、多くの人たちが視聴していたようです。

       教育関係者が観る時間帯ではなかったが、放送直後から、電話が鳴りっぱなし状態となり、問い合わせが多くなりました。  

毎日、教育相談に来られる方が二か月間も続き、順番を待つ列ができるほどでした。私は、一人に一時間を基本になるべくていねいに応じていましたが、これほど悩んでいる人たちが多いということを肌で実感したものだった。

 私は見た目と違って体力がなく、肝臓を傷めた時期があり、胃ガンだと言われたままであり、血圧が常に100を切っていて疲れやすい。 気管が弱いせいで、咳が出てしゃべりにくいのですが、命を懸けるおもいで一生懸命に教育相談に応じていた。

 大きな問題が目の前に立ちふさがっていました。 ここまでは、私自身の努力が実ったとおもいたいところですが、ここからは、多くの人たちのご協力と、目に見えぬ何ものかによって導かれたとしか思えぬ展開が生じます。

 高田校長は、あの(高田屋嘉兵衛)の孫娘さんのご主人でもある。日本の外交史に、その名を残し、司馬遼太郎さんの小説「菜の花の沖」の主人公になった高田屋嘉兵衛氏のことをご存じの方は多い。 校長には、学内のことは私が全部引き受けるので、中学校巡りをして、来年度の生徒集めをしていただきたいとお願いしてあった。 中学校の校長を退いた後、信託銀行に籍を置いていた方なので、それが適任と思ってのことだった。 

  高田校長から、来年の生徒受け入れ態勢について、どのような計画を持っているのかの質問を受けた。毎日、多くの教育相談を受けながら、同じことを考えていたのだった。 教室は二つしかない。

このままだと、来年は25名の生徒しか受け入れられないのだ。しかし、テレビでの大きな反響と、おおくの教育相談の結果として、来年はどれぐらいの生徒が集まるのか、予想もできない現状であった。その中で、来年の校舎はどうするのか、結論を急がねばならなかった。

問題は資金だった。潤沢な資金を持っているのなら、だれにでもできることだ。わたしは、これまで資金を持たずに勝負してきた。行き場を失った生徒たちのためにとがむしゃらに開校したが、懐は空っぽで、自分の給料は取れない現状であり、一年間の試算では大きな赤字も覚悟の上だった。

目の前にいる、行き場をなくした生徒たちのために道を開く、言い換えれば「後期中等教育の保障」を国に代わってやっているようなものだ。

 そのような理想論は、現実の中では、金がなければ実現できないのだった。18人の授業料は砂漠に降る雨のごとくあっという間に消えていきます。毎月の支払は、教師たちへの給料と家賃、そして光熱費など、とても収入とのバランスなどは取れない現状だった。そんな中でも、やらねばならない重大事は次の校舎問題だった。 

    一年前に、校舎探しをしているとき、須磨区の幹線道路傍に建っているビルが気になっていた。板宿駅からも遠くなく、幹線道路に面していて、明るいところだが、なぜか空きビルになって久しい。不動産を扱ってきたので、わたしには物件を見る目がある。そのビルのことを、この教室を世話してくれた山田氏に調査を依頼し、売ってくれるかどうかも調べてほしいと依頼した。放置されていて汚いビルだが、鉄筋コンクリート作りのビルだった。

 数日後、売ってもよいという返事をもらえたという。 金額は、一億円をはるかに超える。取引銀行に行き、試算表を提出して、融資を求めたが、『現在の生徒数は18人ですよね。それが、試算表では100名の新入生の計算になっていますよね。急に18名から100名に増えるとはとても思えません。 入学者が確定しているというのならば検討しますが、まだ確定されていないのではお貸しできません』 と言って、断られた。 もちろん、当時の取引状態では、一億円以上もの借り入れを申し出るほうが厚かましいともいえるが、わたしなりの試算では、借りても大丈夫だという確信があった。

過去の経理の仕事が役立つ時だと、考えていた。 しかし、生徒募集を確実にするためには、受け入れ生徒数に見合うだけの教室の確保と、中学校に対する「学校説明会」を十一月には開催したいとも思っていた。

来春の生徒募集を二十五名にするか、百名以上にするかの勝負の時でもあった。 今年度だけでも三千万円の赤字なのに、25名募集ではやっていけない、なんとしても100人の募集をと考え「為せば成る」と前向きに考えた。藁をも掴む気持ちで、あちこちの銀行を訪れたが、門前払い同様の扱いで、断られた。