中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(75)私を守ってくれたのはだれなのか

    《教師募集を始める》

 新聞の募集欄に「現在の学制ゆえに切り捨てられた生徒のために貴方の力を貸して下さい」を出したところ、十数名が応募してくれた。

 まだ、教室の造作でガタゴトやっている中での面談となった。

県立高校35年のキャリアがあり、工学博士でもある山下尭章先生は高齢であるが期待が持てそうだった。元薬剤師だった植松康子先生、教師は初めてという松田兆治先生の三人は過ぎに決定した。もちろん、すべて高校教員資格をお持ちである。数学、理科、社会科は決まった。だがたったの十八人の生徒のために全教科の教師を雇うのは厳しいので、

残りは、時間制で雇うことにし、総員8名の職員でスタートすることになった。

 入学式を前に二週間、まいにち八時間をかけての研修会を行った。高田茂校長は、中学校の校長体験はあるものの、基本的に私の教育論を理解しているとは思っていないし、ほかの教員たちも、一クラスの中の、下から4人目までの生徒にこれまで目を向けてきたことはないだろうから、この二週間は、「人間の可能性」についてのみ重点的に持論を展開した。

山下先生は、以前に神戸北高校の設立委員をしてきた体験から、いち早く私の理念を理解してくれた。神戸北高校は、当時の校区輪切りで第2校区の公立校6番目の存在で、扱いにくい生徒が集まる学校でもあったからだ。

    《入学式を迎える》

たった18人の生徒を迎えるささやかな入学式だった。しかし、とても厳粛な入学式でもあった。西側の教室に鉢植えの松を置き、18名の生徒と保護者の方々、そして職員で、会場は一杯になりました。

前日から選曲してあったBGMが、通路に置いたカセットから静かに流れ、華やかなムードと厳 粛なムードを交互に漂わせました。出席者は、それぞれに違ったことを考えていただろうと思う。

生徒たちは「本当に学校なのか。運動場もないし、大丈夫なのかよー」と思っていたかもしれない。

保護者の方たちは「こんな学校に自分たちの息子が入るなんて、おもってもいなかった」と、おもいながら期待と不安が混じっていたことだろう。

ある人は「心配していたけど、おもっていたよりいい子ばっかりじゃないか、ちょっと安心した」とおもったかもしれない。

参加者全員が、いろんな思いをもってこの日を過ごしただろうと思う。

私は、数年前に恵美が歌った「大地の中で」に触発され、これからのわが人生を「人のために生きる」と決心したことを忘れることなく、どこまでもそれを実践しようと、決意を新たにしたのだった。

 結果的には、この18人の中からすごい人材が出たのだから、苦労が報われた。

   《手作りの教育が始まった》

  教育方針はすべて私が決めることで職員たちに了解を得ている。 教育の経験の問題ではない。これまでの教育制度を否定している私が、新たに切り拓いていこうという道を実践するためには、合議制では成り立たないとおもったからだった。

 入学式がすんで一か月後に神戸新聞社から取材に来た。 彼は「教育現場という所は、思いのほかに保守的な所が多くて、いいことも悪いことも、ほとんど、しゃべってもらえない」という。

 神戸新聞は地方紙ではあるが、購読者が多くて、大手新聞を凌ぐほどであった。彼は、4日間の連載記事を書いてくれた。かれは生徒たちと一緒に授業を受けながら取材記事を書いたのだった。

 《テレビの取材に生徒が過敏に》

この記事を読んで、今度はサンテレビが取材に来た。 生徒たちの反応は新聞の時とは違っていて過敏だった。

『俺らを撮ってどうしようっていうの?僕らが落ちこぼれだって放送で晒し物にするつもりなのか』

彼らのコンプレックスは非常に強くて、テレビに顔をさらすことを極度に嫌った。報道とは怖いものであって、映像や記事となって社会にさらされた瞬間から、その内容に間違いがあったとしても、読者や視聴者はストレートに受け取ってしまいかねない。生徒たちの懸念は正しいのだ。

 生徒の顔は映さないという条件で許可したのだが、テレビ局のカメラマンは階段から窓越しに撮影し、結果的には生徒たちから大きな怒りの声が私に向けられる結果となってしまった。

    《学習体験を実施する》

 7月に入り、まもなく一学期も終わるころ、学習体験を実施しました。鳥取県奥津温泉の農協の方にご無理をおねがいして、植林されたヒノキの下草刈りをすることになりました。二泊三日の予定で、定められた区域の作業を済ませれば、二泊三日の食費と宿泊費が無料になるという約束でした。

 高田校長が引率しましたが、この学習体験は結果は散々でした。まじめに働く生徒と、何もしない生徒にわかれてしまった結果、まじめに働いていた生徒たちが馬鹿らしくなってきて、「もう帰ろう」と逃げ出してしまったのです。

  姫路駅まで行ったが、すでに西宮方面への電車はなく、駅で朝まで眠り、始発で自宅まで辿りついたものの、母親に諭され、また電車を乗り継いて奥津まで戻ってきたのだった。 

 彼らがいなくなってから、戻ってくるまでの間、引率していた教師たちは夜を徹して連絡を待っていたようだ。

二日目は、もっと大変な事態が起こってしまいました。 三人の生徒が下草刈りの最中にふざけて植林してまだ二、三年のヒノキの苗木を鎌で切り倒してしまったのです。農協の人たちが大切に育てた苗木を悪ふざけで切るなんて、本当に申し訳ないことをしてしまった。それでも、人形峠のウラン鉱の展示館に見学させてもらうなど、農協の方々のご支援をいただいて生徒たちには、後々深く残る思い出となったようだった。