中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(147)私を守ってくれたのはだれなのか

  《南極観測船「しらせ」の想い出》

パース滞在の方なら南極観観測船「しらせ」を知らない方はいないだろう。「しらせ」応援団長としては、長いあいだ活躍された賀陽先生が忘れられない。毎年「しらせ」のフリーマントル入港を日章旗を持って出迎える姿は脳裏に焼き付いている。

 私は「しらせ」を管理する国立の「極地研究所」から依頼されて、フリーマントル入港時の写真を撮影してネットで送っていた。当時の極地研究所のホームページの「しらせ入港写真」は私の撮ったものである。「しらせ」入港の日は早起きしてフリーマントル港まで車を走らせ入港写真を撮ったものだった。

 そういう縁もあって、我が家で「しらせ」の艦長以下幹部たちをお招きしてのパーティーを行うことになった。8代目帖佐艦長、9代目茂原艦長、10代目石原艦長、11代目

原口艦長、12代大平艦長さんまでお付き合いがある。(写真は原口艦長と幹部の寄せ書き)

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その縁もあって、6代艦長の久松さんが音頭を取ってくださって、横須賀基地で歴代艦長を集めてのディナーパーティに夫婦で招かれたことがあった。日本が誇る横須賀基地内に足を踏み込んだのは初めてであった。

 毎年、艦長以下十数名が参加して下さった。今も当時の寄せ書きが残っていて思い出が多い。

鹿野谷総領事、中田総領事、設楽総領事も来てくださり、パーティはますます盛り上がった。

いまでも特別な思いがあるのはWA交響楽団のチェロ奏者である小松さんが、チェロを持って我が家に来てくださり、演奏してくださったことだ。

《思い出の短編集》

これまでパースでの思い出を数々書いてきたつもりだったが、まだまだ書き忘れているものも多いので書き足しておこう。

《バッセルトンでの盆踊り》

 いつだったか忘れてしまったが、パースから車で2時間ほどのバッセルトン市で盆踊りをしたことがある。

バッセルトン市と東京都の世田谷区が姉妹関係になって何年目かのセレモニーと写真展だったように記憶している。

総領事から頼まれて、それじゃ・・と急きょ仲間を集め何度も集まり猛訓練を重ねてバッセルトンまでいった。

シティホール(市役所)でのセレモニーのあと、恥ずかしながら「東京音頭」「花笠音頭」「大漁節」などの盆踊りで花を添えた。参加者のオージーたちも一緒に楽しそうに踊ってくれた。

翌朝、バッセルトン市の関係者のおうちに招待され朝食を共にさせていただいたのが昨日のことのように思い出される。

 

《日本語補習校》

パースは在住日本人が少ないのに日本人学校がある珍しい存在だ。それは当時の文部大臣の個人的な事情で設置を認めたということであろう。

日本女性と豪州人が出会う機会が多くなり、年を重ねるごとに多くの子供が誕生する。ご主人がオーストラリア人ということもあり、現地学校に通わせながら日本語を学ぶ環境が欲しいという要求が多くなってきていた。

日本語補習校の設置を考えることになり、初代設立準備委員会委員長として私が指名された。当時の領事の木下さんとはよく語り合ったものだ。木下領事のご家族からは帰国後もお電話をいただく。

日本語補習校はその後、剣道家でもある福本さんのご活躍で立派に育っていて日本人学校より生徒数が多くなっていると聞いてうれしい。

手元に残っている記録ででは2003年12月15日に2回目の準備委員会が総領事館で行われ、参加者は井上朱見氏、井上カズヒロ氏 あきこ・パップ氏、木下典男氏、福本智晴氏と私の6名となっている。  

 

《妻のホールインワン

ゴルフは、あちこちのパブリックコースなどでも楽しんだが、メンバコースとしてはワナルーゴルフクラブの一員だった。 ある日8番の池越えショートホールで妻がホールインワンを達成した。 

妻は私に「あなたは長い間ゴルフをやっていてもホールインワンはないでしょう?」と、いまでも自慢される。ワナルーゴルフクラブではたくさんの思い出があり、今でも1番から18番までのコースを記憶している。

鮮烈な記憶として残っているのはショットガンスタート競技会であった。1番から18番までの各ホールから一斉にスタートするという競技で、ほぼ同時に競技を終えるので参加者全員での食事会が盛り上がるのだった。

オーシャンリーフにお住いの田淵さんご夫婦とは同じメンバーとしてよくご一緒した。

《ソレントボウリングクラブ》

パースには各地にボウリングクラブがある。もちろんテンピンボウリングではなくローンボウリングである。ソレントボウリングクラブはパースでも名の知れたクラブであって活動も活発だった。対外試合用にチームがいくつか作られているが、私も3軍のチームの一員となっていた。当時パースに在住していた日本人でローンボリングクラブのチームに入っていたのは私以外にいないのではないかと記憶している。

 日曜日には多くのメンバーが参加して競技が行われる。チームの作り方がすばらしい。

年齢構成から初心者、熟達者などをうまく籤で分けてチームを作る。ゴルフの場合と違って、ボウリングの場合は、試合中、チームの4人がいつも近くにいる。そのために会話が大変だ。英会話の苦手な私には、鍛えられる機会でもあった。あの雰囲気よかったな~。思い出としてしっかり残っている

《様々な遊びを学ぶ》

  全く未知のパースで、いろんな遊びを教えてくださったのはレストラン・サムライの浴町(えきまち)さんだった。

カジノではブラックジャックの手ほどきを受けた。おかげでカジノの楽しみ方も覚えたし、インターナショナルルームの会員として楽しむこともできた。 当時のインターナショナルルームメンバーの待遇はよく、結果的に「ただ」になるような仕組みだった。いい時代だったともいえる。今ではあのころとは様相が全く違っているらしい。

ヨーク市のジャズフェスティバルでは浴町さんが会場近くの岩場に例年使っているらしき特等席を知っていて、花見をしながらサムライさんの特製弁当をいただいたものだ。

マージャンもご一緒した。歌の好きな彼はマージャンをしながらずっと歌っていたものだ。彼はよく働く人だったが遊びの達人でもあり、楽しい人で、安心して付き合える人だった。

 『青い山脈』を大きな声で歌う、わたしがちょっとおかしいよというと、なにがおかしいのという。<古い上着よさようなら>という歌詞を彼は<古い浮気よさようなら>と歌っていたのだった。 え~つ、そうなの? 中学生のころからずっと歌っていたし、いろんな大会でも歌ってきたんだよな~気がつかなかったな。と言ったのでみんなで大笑いした。

 とてもいい人だった。

《特別な人たち》

 パースに移住以来、家を買うのも医者へ行くにも一人で片づけていた。英語が達者でない私がよくもやっていけたと思うほどである。

ところが、ジャパンクラブで知り合ったデーヴィス靖子さんと知り合ってからは随分彼女にはお世話になった。感謝してもしきれないほどだし、何より信頼できる、安心できる、親切で優しいなどと形容詞を並べても足りないほど感謝している。

いつまでも心に残るすばらしい女性なのだ。私たち夫婦が心から信頼している人である。帰国してからも長い間彼女のお世話になった。

 日本語月刊新聞のJAニュースの編集長だった徳島和内さんとの出会いがなかったら、新聞に連載させていただける機会がなかったかもしれない。徳島さんは特別に歌の上手な方で、カラオケにご一緒するのが楽しみだった。帰国後、彼女も帰国しており、再婚しましたというご連絡をいただいた。彼女の幸せを心から願っている。カラオケと言えば賀陽先生ともよく「ふじ」でご一緒したものだが、彼はいま病魔に侵されているという。