中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(128)私を守ってくれたのはだれなのか

               《外人向け日本語教室開設》

 パースでは、日本クラブの会長二期4年間、社会福祉法人・サポートネット虹の会の創立と6年間の会長、日本語補習校学校委員会、全豪日本クラブ会長二年など社会的な活動も多かったが、実はもう一つある。

 ジャパンクラブに入会するより以前にやっていたのは、住んでいる地域のソレント市の(市というが、日本的に考えれば区だと思うと理解しやすい) 市民講座とか、スポーツ施設がすべて集まっている場所が家から車で3分の所にあった。 いろんな講座があるが、その中に「日本語講座」を入れてくれないかと交渉したところ、市が市民に呼びかけを行って、生徒を集めてくれた。

  週に一度の講座だったが教材つくりなどもあって、わたしにはとても刺激的だった。 私の英語は堪能とは言えないので不安はあったが、素晴らしい出会いがあったので忘れられない。

 生徒は20人ほどだった。 妻も手伝ってくれて(妻はほとんど英語を話せない)プリント配りなどをやってくれた。 日本クラブでも虹の会でも妻は控えめにいつもそばに寄り添ってくれた。

日本語講座は二年間でやめてしまったが、生徒間の能力差が出てきて、やりにくくなってきたのでやめたのだった。

         《ニック・オハーンとの出会い》

生徒の中にニック・オハーンという二十歳の男性がいた。名字からアイルランド系の人だということがわかる。O’hernと書く。(’)が入っているとアイルランド系の人だとわかるのです。

 彼は、その時にすでにプロのゴルファーだった。当時はゴルフ場に所属していてコーチなどをやっていた。 一緒に回りましょうかと誘われて、彼とわれわれと三人でプレーをした。生まれて初めてプロとゴルフをしたのだが、妻が彼に向かって「ニックのハンデはいくつなの」と訊いたから面白い。 かれは、ぼくはプロだからハンデなんてないよ、ゼロだよと答えていた。

 かれは22歳から、オーストラリア各地の試合を転々としていた。車の中で寝ながらの転戦のようだった。

                      《新聞記事に驚く》

 ある日の新聞の一面に大きく「ニック・オハーンって誰だ」という見出しが出ていたので驚いたが、シドニーで行われている全豪オープンゴルフの初日にトップに躍り出たので、新人の活躍を新聞が興奮気味に取り上げたのだった。

 結果的には2位に終わったが、わたしたちも驚いた。この試合の半年前に美人のイラストレーターと結婚した。 プレゼントは何にしようかと迷ったが、妻が夫婦茶碗にしようと言ったのでそれに決めた。 彼は、僕の収入が少ないので、妻の支援に甘えていますと言っていたのだった。オーストラリアツアーの時は、ホテルなどには泊まらずに、車の中で寝泊まりしながら、各州を車で移動していたのだった。

      《タイガーウッズキラーと呼ばれるほどに成長した》

 全豪オープンのあと、半年ほどでアメリカツアーに加わった。あっという間にどんどんとアメリカのPGAツアーランキングが上がってきたので、その急成長に驚いた。 優勝こそ一度もできなかったが、マッチゴルフで二度も、あのタイガー・ウッズ選手と対戦し、二度とも破ったので「タイガー・キラー」というあだ名がついた。

 8年後に自宅の階段から落ちでから不調が続いたが、あの痩せっぽちの青年が世界を沸かせたのだからすごい。彼は、サッカーも好きだったという。どちらを選ぶか自分で決めろと父に言われたので、コイントスで決めたという。

  ニックの日本語学習は、日本ツアーに参加しようと思ったからのようだがPGAツアーで頑張れたのだから彼の努力が実を実らせたのだろうと思う。

 14年間のパース在住で、世界規模で活躍したニックとの出会いはとてもよかった。

             《ついでに新聞について書いておこう》

  パースでも新聞配達がある。タプロイド版だが50ページ以上もある分厚い新聞を丸めてラップで包んであるものを、バイクから各家の前庭の芝生の上に投げながら配達するのだった。アパートメントのばあいはどうなるのかは知らない。

        《世界的なゴルフ大会の取材に行く》

 ゴルフと言えば、パースのキャリナップ・ゴルフ場で行われたジョニー・ウオーカー選手権には思い出がある。

まず、キャリナップ・ゴルフ場というのがすごい。子供が誕生した時に入会申請をしておかないと入れないとも言われるゴルフ場として知られていて、有名政治家と云えども入会できないと総領事から聞いた。とても格式の高いゴルフ場であり、わたしはプレーすらできない。 どんなゴルフ場かと、クラブハウスまで行っても中には入れないので戻ってきたことがあった。

このゴルフ場でジョニー・ウオーカー選手権が行われた。2003年の2月だった。

 私は1995年から2010年まで 「JPオーストラリア」という邦人紙に毎月5千字のスペース(タプロイド版1ページ分)を頂いてさまざまな記事を掲載していたのだが、編集長の徳島さんからジョニー・ウオーカー選手権の写真と観戦記事を別途依頼された。

 カメラマンの腕章と、記者の腕章を両腕に巻いて4日間、たっぷりとコースを楽しんだ。

ジョニー・ウオーカー選手権は、欧州ツアーの中の一戦で、世界の有名ゴルファーがたくさん参加していて、とても盛大で4日間有料チケットが完売という人気だった。

この大会では、南アのアニー・エルスが優勝した。 当時のエルスはPGAツアーでもランキング上位にいた選手ですごく人気の高い選手だった。 日本からは欧州ツアーに参加していたスシ石松選手が出ていたが、予選敗退した夜に、わが家に招いて、各地のツアーに参加しての面白い話を聞きだして記事にまとめたものだ。

  記者たちが集まるテントがある。そこにはジョニー・ウォーカーの中瓶が置かれていて飲むことが出来る。ある日に中国人記者が自分のバッグに三本も入れて持ち帰るのを見て驚いた。さすが、なんでもありの中国人だと。