中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(71)私を守ってくれたのはだれなのか

         《私の教育論を書く》

 その夜、わたしの教育論と連携できた場合の教育の在り方などを文章にまとめた。

  じつは、それが大変な作業で徹夜になった。手書きより印字のほうがよいだろうとコンピューターに向かったが、当時の変換ソフトは未熟で一字ずつ転換しなければならず、一字だけでも時間がかかるソフトだった。(翌年から、少しましなソフトが出てきた)

 それを大阪まで持っていくと、直ぐに送信しましょうと言って下さり、来年開校に間に合わせるにはぎりぎりのタイミングになるでしょうと言葉が添えられた。

 ぎりぎりのタイミング。 そうなのだ、まだ教室もない、生徒募集も急がなければ間に合わない。なんども分室を訪れて決定的な言葉を待った。まだ分室長には一度も会えていなかった。どんなに焦っても(スタートよし)という声を聞くまでは、おいそれとは動けない。中西興業にも辞職を申し出なければならない。 とても微妙な時期だった。

船曳氏が言っていたように、これまで科学技術学園は、小規模の企業と連携は全くない。わたしのように、教室さえ持たないものと連携するかどうか、迷いに迷っているとも思えた。ことは簡単ではないのだった。他の通信制教育の母校となっている高校にあたってみたほうが確かかもしれないと考えた。 科学技術学園はトップに文部省次官を務めた人を据えた誇り高い組織のようで、私のようなものを相手にするはずはないだろうと思うと、不安だった。

 《ゴーサインは出たが》

 十日ほど過ぎた時、大阪分室の次長から「準備を始めていただいて結構です」とのゴーサインが出た。

やったー!と喜んだが、実はこれはのちに大変な問題に発展する。

 そういう問題が起こるとは思わず、早速教室探しに駆け回った。と言っても、生徒が何人来てくれるかも分からない中での教室探しだった。無謀と言えばそれまでのはなしだが、わたしには教育への思いが強かったのだ。それまでの人生では、食べていくために仕事を探し、見つけた仕事にまい進することだったが、教育は私がやりたいと思う最初の仕事でもあった。

    四十歳のころ、わたしにローレックスの時計を買わないかと持ち掛けた外人バー経営の山田氏が、このころに青山興産の不動産部にいて、わたしのところに土地情報をよく持ち込んでいた。 彼に事情を話して教室になるようなものを捜してくれるように頼んだ。

心の準備が整ったので中西興業の社長に

『行き場をなくした子供たちのための高校を作りたい』と話した。

『行き場のない子どもたちって、どういう子供なのだ』

『高校受験に失敗すると、彼らは行き場をなくしてしまうのですよね。そういう子供のことを最近の新聞では(無業者)ってかいています』

『そういえば、そういう言葉が紙面によく出ているね。でも、無業者というのは、遊びまわって世間を騒がせている連中のことじゃないのか』

『そうなのですが、彼らは働く場所もなく、気晴らしに非行しているように思います』

『そんな連中に教育など必要ないと思うけどな』

『現在では、一クラスはほぼ45人ですが、その内の三人から四人は高校進学が出来ません。文部省が高校進学を93%と定めているからです』

『そうだったら、なおさら教育なんていらない連中だと思うが、どうなんだ』

『人には、それぞれの成長速度があると考えています。6歳で小学校へ行き、15歳で中学校を卒業します。 文部省はカリキュラムを作っていて、それぞれの学年に教科ごとの達成度を作っていて、それが教科書になっています。 よ~いドンから始まって、大学卒業まで新幹線のようなカリキュラムを理解できる人と、急行程度ならついていける人もいます。しかし、鈍行でないとついていけない人もいます。 カリキュラムについていけない子供たちは、親から叱られ、教師にも邪魔者扱いを受けて、どんどん(落ちこぼれて)いくのです。彼らの責任とは言えません。 制度が悪いのです。15歳で選別されてしまう子供たちにたいして、社会は知らぬ顔をしています。 わたしは、彼らを救いたい。きっと将来輝くダイアモンドの子供も交じっているはずなのです』

『よくわかってきた。なるほどね。君自身も高校へ行かしてもらえない中で、自分を磨き大きく成長してきたのだから、彼らにもチャンスを作ってあげたいと思うのだね』

『その通りです。ご理解いただいてありがとうございます』

『私の後継者にと思っていたが、君には教育のほうが合いそうだな。できることは協力してあげるからがんばりなさい』

 社長の理解を得て、円満退社が決まった。

 《校舎を捜す》

 山田氏から連絡があり、物件を見に行った。

五階建てのビルで、一~三階に印刷会社、四階にケミカルシューズの会社が入っていて、五階の五十坪がコンクリートむき出しのままで空いていた。

小さな教室が二つ出来そうに思い、即座に決断した。青山興産の持ちビルだったので契約を交わした。内装をどうするかは、今後の進展を見てから決めるこことした。

 

 大阪分室からも教室予定のビルを見ていただいたが「こんな雑居ビルではダメ」と言われないかと、ドキドキしたものだ。

立地としては駅からも近く、長田の工場街の端に位置していて、ビルの前にはかなり広い公園があり、直ぐそばには川が流れている環境だった。心配は、隣に中学校があることだった。生徒同士のトラブルがあれば、それが命取りにもなりかねないからだ。