中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(70)私を守ってくれたのはだれなのか

《建設会社専務に》

47歳で「中西興業」の専務となったが、建築という仕事は、我が家を建てただけで他に経験もなく、不動産業もまったく経験がない。特に建売業というのはなかなかむつかしい。社長からは私の意見を求められるのだが、意見の食い違いばかりだった。

社長は、ある斜面地を買い、造成して家を建て売るときは、近くの土地の相場をかけて売ることで利益アップする。 わたしは、それは騙しみたいなものではないかと厳しく批判する。近隣の土地相場と、斜面を造成した土地とでは違うのではないか、購買者にとってはあまりにも不利だと思うと私が意見を言う。

 

ワイドショーの司会の時のスポンサーが高島屋だったので、商品販売コーナーがあった。いつも事前に商品を見ておいて、コマーシャル担当アナの説明にわたしが一言からんでいたが、商品に納得できない日は黙っていたのだった。 すると、視聴者から電話があったらしく、奥山さんが何も言わない日の商品は悪いものかと質問が来たらしい。 視聴者はちゃんと見ていたのだと感心するが、プロデューサーが、必ず何かコメントしてほしいと言ってきたのだが、自分が納得できないものにコメントはできないと断ったことがあった。私は売り手の側に立てないで、買い手の側に立って考える習性があるから、購買者の不利益になるかもしれないという商品をほめることが出来なかった。

何ごとも弱者支援から考えてしまう習性があるのも、私の育ってきた課程の中で生まれたものだろう。

 

社長とは壁の色でも対立したが、わたしのセンスを認めてくれて、それ以降は上品な壁にすることになった。小さな間取りが多いのにも反対し、部屋数は少なくてもいいから広い部屋にしましょうと提案し、その後の設計から変更してもらえた。

何ごとも社長の機嫌取りをしないで、はっきり意見を言うので、あまり喜ばれないが、それに反発する古い社員たちもいて、それなりに気を遣うことが多かったものだ。

 

宅建設の適地の売り込みに、土地ブローカーが出入りしていた。ブローカーたちは通常の不動産情報に記載されていないような土地情報を持ち込んでくる。いい情報もあるが、ガセネタのほうが多いものだ。

社長に持ち込んでくる人、わたしに持ち込んでくる人に分かれていた。専務となって二年以上たち、顔も広くなってきていたし、わたしを頼ってくるブローカーたちが増えていた。      

社長は、わたしの土地に対する目利きを高く評価してくれていた。不動産も知らないのに、君はどうして目利きが出来るのかと問われるが、土地に対しての一種独特の感のようなものが私には備わっていたとも思える。全く知らない場所に行っても、その形状や周囲との関連から適切な地価を算出して社長に提案していた。

 

ライフロングエデュケーションロン(生涯教育)研究会」という全く独自のグループを作り、他業種の人々を集めて定期的に集いを持っていた。 またそれとは別に「ライフロングデュケーション株式会社」という名の会社登記もして代表となっていた。

自分自身が生涯教育を実践していると思っていたので、他の人たちへの説得力もあった。どの業種も人材教育に困っている。生涯教育という視点で社内教育を広げればよいし、一人一人が実践することで自分を高めていくことも大切だ。

当時、この提案は人々に受け入れられ、わたしのグループに集う人が増えていた。その中には八百屋のおやじもいるし、中学校の校長もいたし、元町の高架下で手広く中古家具店をやっていた社長もいた。そういうつながりが、その後の人生に大いに役立ってくださった。

 

土地ブローカーの中にも変わり者がいて、週刊誌の記者だった人もいて、彼はある精神病院の闇を連載記事にして注目されたことがあった。

会社の近くのファミレスのロイヤルホストへ行って昼食をとりながら情報を聞くのが日常的だったが、話の合う相手には生涯教育の話も熱心に進めていた。

 

昭和58年(1983)、土地ブローカーの一人である船曳氏が、とつぜんこんなことを言った。

 

『奥山さんはとても教育にご熱心ですから話しますが、高校を作ってみようと思いませんか』

『そりゃあね、作れるものなら作りたいですよね』

『ひょっとしたら作れるかもしれませんよ』

『でもね、高校を作るには相当の金が要りますからね、以前に概算したことがあるのです』

『わかっていますよ。場所にもよりますが、安い土地を見つけても何十億円が必要でしょうね』

『それをわかっていて、どうして高校を作りませんかとおっしゃったのですか』

『実はね、わたしも自信がないのですが、奥山さんならやれそうな気がしてね』

 彼はそれから次のような話を始めた。

高校にもいろいろありますよね。全日制とか、定時制とか、通信教育とかがありますね。そのどれも、卒業すれば高校卒業資格が得られます。通信制の場合は4年制となっていて、NHKの通信教育はよく知られていますが、ほかにも通信制の母校のようなものが全国にいくつかあって、その学校と提携すれば生徒を受け入れらます。

 現在は、株式会社では鐘紡とかが連携して、中卒の社員を自社の中で、この制度を使って学ばせています。大きなところでは国鉄が全国に同じ方法で教育施設を持っています。

 近年になって、専門学校のような学校法人の場合は、通信制と連携が可能になっています。しかし、奥山さんが持っている「ライフロングエディケーション」のような、小さくて、実績のない法人会社で連携教育はまだ始まっていません。

 そのところを、どのように広げて行って連携にこぎつけられるかだと思います。

 船曳氏はすでに多くを研究していて、やれそうで、できない現実に突き当たっているという感じだった。

だが、中卒の身で中西興業の専務になったあなたなら、壁を切り崩して実現できそうに思うのだと言うのだった。ライフロングエディケーションでの語りを聞いていてあなたを信頼していますという。

 

 そして、大阪に「科学技術学園高校・大阪分室」があると、住所を教えてくれ、科学技術学園は鐘紡、国鉄などとも連携している学校で、通信教育の歴史が最も古い学校で、東京には全日制の本校があるのだと説明を加えてくれた。

『そこまでご存じなら、どうしてご自分でやらないのですか』

『私は興味があって調べただけです。これまでのお付き合いで、奥山さんには教育というもののあり方をふかくご存じだと、感じてきたのです』

『恐縮です。とにかく、お聞きした以上は、やるだけのことはやってみましょう。わたしが高校を作れるとは思いませんがね。努力は精いっぱいします』

 

 船曳氏は、わたしを乗せ直ぐに大阪へと車を走らせた。

新大阪に近いビルの前に車を止め

『このビルの中に科学技術学園・大阪分室がありますので行ってください』

『船曳さんも一緒に行きましょう』

『私がいても邪魔になるだけですから、一人で行って奥山節を聞かせてやってくださいよ』と笑うだけだった。

 科学技術学園大阪分室に入ると分室次長さんがおられた。名刺を交換し、挨拶が終わって着座するなり

『神戸に連携校を作りたいと思っておりますので、ご協力をおねがいにまいりました』と、単刀直入に申し上げた。次長さんからは、いろいろ質問があったので、お答えする中で教育談義が始まった。

 あの時に、別の質問を受けていれば、その時点で終わりだったかもしれない。ところが教育談義になったのが幸いしたように思える。次長は九州で高校の校長をされていた方であったので教育談義に花が咲いた。

 

 次長さんは

『先ほどからお話を伺っていると、あなたはこれまで教育畑におられなかったとおっしゃったが、わたしの教育畑での経験の中で多くの方々と教育について論議したことがありますが、あなたほどしっかりした教育論を持っている方にお会いしたのは初めてです。感動しました。ちょうど室長は東京の本校での会議に出張しております。 この学校の理事長は元・文部省次官をしておられた方でもあります。あなたの教育論を明日までに持ってきていただければ、会議に間に合うようにファックスで送信しましょう』と言って下さった。