中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(101)

(101)
連携校・科学技術学園の沿革
 
1984年3月の中旬に、科学技術学園の東京本校から校長が来阪
することになりました。大阪の企業内の学校に入学した生徒の卒業式
に出席するためでした。
科学技術学園は、昭和三十九年、日経連の稲山嘉寛会長らの音頭で、
産学共同を旨として創立された学校です。当時は、工業化が急ピッチ
で発展していました。中学校を卒業後、男子は電器メーカーなどへ、
女子は紡績工場へと、多くの人たちが就職しました。
それらの大企業の中に学校を設けその企業内学校で学ぶことによって
高校卒業の資格を得られるようにとの考えで登場したのが、広域通信
制高校なのです。それまで通信制高校は、都道府県単位の学校しかなく、
所轄外の地域の生徒を対象とすることができませんでした。
全国にある企業内学校を対象として連携教育するためには、都道府県の
枠を越えて機能する学校が必要となりました。そこで、稲山会長の肝いりで、広域通信制高校科学技術学園高等学校が発足したのです。
当時、企業内学校を持つほどの企業に就職できた人は比較的成績のよ
かった人たちでもあり、科学技術学園高等学校(以後、科技高と略さ
せていただきます)は、企業内の優秀な人たちが入学した学校でもあ
りました。
昭和五十九年、神戸暁星が科技高と連携した年は、科技高の二十周年
にもあたりますが、当時の連携先は四十一ヵ所あり、そのなかには、
国鉄(現、JR)、トヨタ自動車日産自動車松下電工、日本冶金、
を代表する大企業が入っております。JRを除き、現在もそれぞれの企
業内学校は科技高と技能連携教育をおこなっています。卒業者のなか
には、それぞれの企業で幹部になっている方も多く、また、オリンピ
ックの選手も輩出しています。
この翌年の昭和六十年から平成元年にかけて専修学校との連携が増え、
それらの生徒が企業内学校の生徒数を上回るわけですが、この59年
までは、圧倒的59年は、科技高にとって大きな転換期に向かう年で
あったと言えるのではないでしょうか。
それまでは、どちらかといえば、エリート生が入学していた学校に、
高校進学94%時代の落ちこぼれ生徒が、従来タイプの生徒数を上回
ったのです。企業が責任を持って運営し、生徒もまた企業の社員だっ
た形態から、生徒から授業料をとって経営していかねばならない専修
学校との連携の形態が多くなっていったということは、従来の教育
方針を見直す必要が、科技高の側にあったということだと思います。
創立後まもなくから就任されている福田理事長は、戦後、米軍が廃止
してすべてをローマ字化を阻止した立役者の一人でもあり、後に文部
次官ともなられた方です。現在も、日本育英会理事を兼務されていて、
超大物理事長ともいえる方です。
当時の校長の飯田吉郎先生も、長年、定時制・通信高校校長会の会長
をしていた方で、とても豪放磊落な方でもありました。
時の大阪分室長の水田先生は緻密で、何事にも慎重な方でした。水田
先生は約束を違えたことは一度もありませんでした。しかし、反面、
厳しい面のある方でした。
当時、飯田校長と水田大阪分室長との間には強い確執があり、私は両
者の深い溝にはまってしまっていたのですが、当時の私はそのような
事情があるということさえ知りませんでした。そして、「何も知らな
いものほど怖いものはない」とのたとえ通り、連携教育の法的根拠さ
え知らないで学校作りを進めていたのです。
企業内学校と連携はしていても、その他の連携の経験が科技高にも
なかったのか、大阪分室側に連携契約のノウハウがなかったのか、あ
るいは、まったくの誤解から始まったのかは分かりません。とにかく、
本来ならできるはずのかなった学校だったのです。
やがて、東京から校長が来校する日がやってきました。卒業式の会場
に近いレストランでお会いすることになりました。初対面の挨拶のあと
、食事をはさんでいくつかの質問があり、後は談笑に移りましたが、
話の途中、校長が、「こういうことを大阪で勝手に進めてもらっては
困る。認めるわけにはいかん」と同席の大阪分室長の方を向いて言わ
れた時は、もはやこれまでかと断腸の思いでした。分室長は、「十八名
の生徒のために、何とぞよろしくお取り計らいを」と、取りなしてく
ださいましたが、老齢の分室長が頭を下げてくださったことに、平身
低頭の思いでした。
何の返事ももらえないままレストランを出ました。卒業式会場まで一
緒に歩こうと校長が言って下さり、私と二人、他の人と離れて会場に
向かいましたが、その道中、私の背中に手を回し、大きな声で、「神戸
の人は粋だねぇ・・・・・とても気持ちがいいよ。応援するからがん
ばって下さい」と言って、今度は背中をポンと一つ叩いて下さったの
です。
水田大阪分室長と飯田校長の確執の中で振り回されていたらしいことを、
この時に初めて気づいたのです。大阪分室が勝手にやったことだから
許せんと校長は考え、水田分室長は企業内生徒の減少を考慮し、新たな
通信教育の展開のあり方を求めておられたのだと思います。両氏ともに
私はご恩をこうむり、尊敬していますし、父親に対するような思いを持
っています。しかし後日、両氏の同席するところで、「教師が確執を重
ねることをおやめ下さい」と同じ手紙をお渡し、醜いお二人の確執を批
判しました。その翌年、飯田校長は学校を去られたのです。
文部大臣から「技能教育のための施設」として指定を受けたうえ、学校
教育法第四五条の二に基づいて通信制高校と連携しなければならない--
このような法的知識もなく、ただただ、「切り捨てられた十五歳」のた
めに、がむしゃらに学校を作ろうとした私の願いは、何とかスタート
できるようになりました。もちろん、後に「技能教育のための施設」と
して指定を受け、法的根拠を整えたことは言うまでもありません。
最近、アメリカから、日本国内のあらゆる法的システムの矛盾が指摘
され、大きく改革に動いておりますが、学校の仕組みは、戦後最大の
矛盾ではないかと思うのです。
『窓ぎわのトットちゃん』のトモエ学園のような学校がどうして現在は
存在しないのでしょう。トモエ学園のような学校をどうしても作りた
いと考えれば考えるほど、「学校制度」の矛盾を感じていました。