中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(74)私を守ってくれたのはだれなのか

  《本校からはまだ決定の連絡はありません》

 科学技術学園大阪分室には、なんども足を運び、実情報告をしてきたにもかかわらず、この日は頭から冷水を掛けられたような言葉を聞かされたのだった。

『本校から、まだ最終的な決定がおりておりません』という。

詳しく聞いてもイマイチよく分からない。

『3月中旬に校長が大阪に来るので、その時までは決定ではないと、おもってください』と言うのみである。

 これまでに、「学校案内」を作る際にも確認を取り、いちいち手を打ってきているので、こちらに齟齬はないはずだった。

 これが通常の取引なら訴訟ものだと内心は腹立たしいが、分室長も次長もなかなかの人物なのだ。煮えかえる腹をぐっとこらえて我慢し、次のステップを考えようとおもった。

「3月中旬に大阪での卒業式にために校長(理事長)が来阪する、その時に校長・理事長と直談判をしてほしい。それまでは決定ではないので、最終的に生徒たちにも迷惑がかかるかもしれない」とは、なんということなのだと、

考えても、考えても、わからないが、進むしか方策はない。

  私は、事の推移から考えて、こちらに不備はない、どうも本校内部の問題らしいと、気がついた。生徒募集はこのまま続けて、3月の校長との対談に賭けてみよう、もしだめなら訴訟を起こそうとおもった。

 私も半端な男じゃないぞ、いざとなったら命がけで戦うぞと腹は固まった。

 万一の時は、集まった生徒だけでも救済の道を科技校に預けようと考えた。

 集まった生徒たちの話を聞いてみると、だれもが「どこかの高校には行けるだろう」と思っていたようだ。まさか受験さえも受けられない事態になるとは考えたこともなかったようなのだ。

   《分校と本校の権限争いか》

 次第に事態が見えてきた。大阪分室には、新設校の認可をする資格が与えられていなかったようなのだ。ということは、何を物語るか。今度のようなケースは科技校本校でも初めてのケースだったのだ。その認可権をめぐって本校と大阪分室が対抗していたようなのだと気がついた。大阪分校の室長も大物だっただけに、新たな問題に対応する権限が欲しかったのかもしれない。

  《科学技術学園の沿革を書いておこう》

 昭和39年に日本経済連合会の稲山会長らの音頭で、産学連携を旨として創立された。当時は工業化が急ピッチで発展しており、中学校を卒業後、

男子は電機メーカーに女子は紡績工場に就職した。大企業の中に、企業内学校で高卒資格を得られるようにとの考えで登場したのが、広域通信制高校だった。それまでは、都道府県別単位のものしかなかったが、広域制にすることで、全国の企業をも包含できるようになった。

 稲山会長の肝いりで、広域通信制高校科学技術学園が誕生したのだった。

当時、大企業に就職できたのは、比較的好成績の人たちであり、彼らにより一層の知識をつけさせて、社内の人材確保を考慮したものだった。

 昭和59年に神戸暁星学園が科技校と連携できた年は、科技校の創立二十周年の年だった。

 それまで科技校の連携先は41か所であり、その中には、国鉄(のちのJR)トヨタ自動車日産自動車松下電器、日本冶金、いすゞ自動車東京電力関西電力日立製作所中部電力などがあった。

 卒業者の中には、それぞれの企業で幹部になった人も多く、オリンピックの選手も輩出している。

 私が連携した翌年の昭和60年には、専修学校との連携が増え、やがて、企業内生徒数を上回るようになっていくのだった。

 私が、切り開いた道に続く人たちも多くなった。ここで大きな問題がある。

科技校は、これまで優秀な生徒たちを対象にしてきていたのだったが、わたしの唱える、落ちこぼれた生徒に希望の道を与えるというのは、科技校にとっても大きな冒険になる恐れがあったのだ。

 大企業が責任をもって運営し、生徒が企業の社員だった形態から、一般法人が経営する学校と連携することへのためらいであったようだ。

 創立後まもなく就任した福田理事長は、戦後に米軍側から、漢字を廃止し、すべてをローマ字に変えるようにとの指示に、猛烈に反対し、それを成し遂げ、後に文部次官となった人だった。

 3月に会うことになった飯田校長は、長年にわたって通信高校校長会会長を務めておられた人でもあった。

   《校長との会見3月中旬》

  あとで分かったことだが、分室長と校長との間に強い確執があり、そのはざまに分室次長と私が巻き込まれている状態だったようなのだ。

 水田室長は、緻密であり何ごとにも慎重な方でしたが、とても厳しい反面のある方でもあった。大阪分室は、関西の連携企業内の生徒に責任を持つ立場でもあったが、今後を視野に入れて新しい道を模索してきたようでもある。  

 そういう背景があって、次長が私の持論に賛成し、室長にファックスを送るきっかけになったようなのだ。

 科技校とて、企業内連携以外の経験はなく、菊池次長のひらめきによって私を受け入れたのだった。水田室長も協力的であったのだが、室長も一般法人との連携の経験がなく、本校に打診するしかなかった。本校の飯田校長も同様であり、一般法人との連携に不安があったのだろうと思う。

 その結果として、複雑な様相をからみだし、校長と対談するまでは、すべて無決定だということになったようなのだ。

  いろんな情報は、すこしずつわかってきたものの、わたしとしては、背水の陣であり、のんびりとしていられない。

 大阪での卒業式のあった日、わたしは近くのレストランで待っていた。

 レストランに入って来られ、名刺を交換し、挨拶を済ませて、食事に移った。食事中に校長は

『こういうことを、大阪で勝手に進めてもらっては困るね。認めるわけにはいかん』と、同席の室長のほうを向いていった。

室長は

『18名の生徒のためにも、なにとぞよろしくお取り計らいを』と、とりなしてくれたが、もはやこれまでかという思いが脳裏を横切った。

  食事がすんで外に出た時、飯田校長は

『卒業式会場まで二人で歩きましょう』

と、少し早足になり、ほかの人たちと距離を取ってから、わたしの背中に手を回し、やや大きな声で

『神戸の人は粋だねぇ・・・とても気持ちがいいよ。応援するから、しっかり頑張ってください』と言って、背中をポンとたたいてくださった。

  卒業式では多くの生徒が巣立っていく様を目撃した。式の後、飯田校長と水田室長がおられる前で、事前に用意していた手紙を二人に渡した。

 その手紙には、お二人とも素晴らしい教育者でありながら、つまらぬ確執で私や、入学を希望している生徒に不安を与えたことに対して、反省していただきたい。今回は、希望を与えてくださって感謝しております。お二人には、父親のような愛情も感じております。と書いておいた。

 その後、文部省に対する申請書類全部をすべて一人で書き上げて提出した。申請書作成はとてもむつかしいものであったが、自分でなにもかもやることで、夢が実現していく道筋を描いているような気持にもなった。

やがて、文部大臣から「技能教育のための施設」としての指定を受けたのちに、学校教育法第四十五条の二に基づいて科技校と連携できたのだった。

 このような法的知識も準備も知らないで進めていたのだから、恐ろしいが、あの情熱があったからこそ、できたのだと思っている。

(株式会社)ライフロングエデュケーションが、学校教育法第四十五条の二を受けたのだった。

 なぜ、現在では「窓際のトットちゃん」のような学校が作れないのかと不思議に思う。わたしは、あの本に出てくる校長のような人になりたいのだか。