中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

「人生いろいろあって」(17)JA・NEWS新聞3月号掲載

JA・NEWS新聞 2014年3月号 掲載
人生いろいろあって(その17
 
プレゼンの教育論
 話は前号の科学技術学園高等学校科技高)大阪分室を出たところまで戻る。菊池分室次長から「あなたの教育論を書いて明日までに持ってきませんか。それを東京の本校に送りましょう。分室長も東京での会合に行っておられるので読んでいただけるでしょうから」と言われて分室を後にしたのだった。
私はその夜、徹夜をして私なりの教育論を書いた。いや、書いたというよりプレゼンテーション効果をねらってPCのワープロソフトで入力したのだった。当時売り出されて間もないころの「NEC・9801」には、日本語ワープロソフトがまだ充実しておらず、一字一字変換をするといった大変手間のかかるものだった。
PCで入力した私の文書は、大きな効果をもたらした。当時はそんな時代でもあった。翌日大阪まで持参すると、菊池次長は「早速、東京本校へファクスで送りましょう」と、受け取ってくださった。
後々分かったことだが、この話を切り出した船曳(ふなびき)さんは、情報をどこかで小耳にはさんだだけで、その話が本当に実現したことに驚いて、後に彼は「中原さん、よくやったよね。本当に高校をつくっちゃったもんね」としきりに感心してくれたものだ。
菊池次長も突然にやって来て「学校をつくりたい」と教育論をぶった私への良い意味での誤解から始まったものと思っている。世の中は何が起こるか分からない。この時を期して、不可能が可能へと動き始めたといえるだろう。そういえば東大のロケット博士で有名な糸川英夫博士の著書には「システムとは不可能を可能にすることだ」と書かれていた。
もちろんここから紆余(うよ)曲折があって「莫大(ばくだい)な借金だけを抱えて頓死しかねない思い」を何度もさせられることにもなる。
私は大阪の分室を何度も訪ね、生徒募集を始める段取りもあり、校舎の準備なども一刻も早く始めたいがそれでよいかと、決定的な返事を次長に求めた。次長は、「分室長と相談して返事します」ということだったが、初めて訪問してから10日後には、「準備を進めてください」と言われた。
 
学校設立の下準備
「準備を始めてください」と、今度は大阪分室の水田大阪分室長からの言葉に励まされ、開校の準備に取り掛かった。水田分室長も高校校長経験者で、なかなかの大物として知られた方だった。
まず校舎を確保しなければ生徒募集もできない。生徒も確保できていないのだから、どんな校舎を準備してよいかも分からない。次号で詳しく書こうと思っているが、開校までの約半年間は、科技校との契約、資金関連、人材集めなどいろんな意味で大変だった。生徒募集の点からいえば、ぎりぎりのタイミングではなく完全に立ち遅れていた。
とりあえず、いくつものケミカル会社が入居しているビルの5階フロアを全部借りて、教室(3教室と教員室)に改造した。そばに川が流れ、公園の向こうには中学校の運動場が広がっているという場所だった。生徒募集については後ほど触れるとして、四苦八苦の末18名の生徒の入学を決めていた。その時点で科技校はまだ正式な契約を結んでくれていなかった。
 
連携校・科学技術学園の沿革
昭和59年3月の中旬に、科学技術学園の東京本校から理事長兼校長の飯田吉郎先生が来阪することになった。大阪での企業内の学校に入学した生徒の卒業式に出席するためであった。
科学技術学園は、昭和39年、後に経団連の会長になられた稲山嘉寛さんらの音頭で、産学共同を旨として創立された学校である。当時は、工業化が急ピッチで発展して、中学校を卒業後、男子は電機メーカーなどへ、女子は紡績工場へと、多くの人たちが就職した。
それらの大企業の中に学校を設け、その企業内学校で学ぶことによって高校卒業の資格を得られるようにとの考えで登場したのが、広域通信制高校であった。それまで通信制高校は、都道府県単位の学校しかなく、所轄外の地域の生徒を対象とすることができなかった。
全国にある企業内学校を対象として連携教育するためには、都道府県の枠を超えて機能する学校が必要となり、そこで、稲山さんの肝いりで、広域通信制高校科学技術学園高等学校が発足したのだった。当時の科技高は、企業内の優秀な人たちが入学していた学校でもあった。
昭和59年、私の設立した神戸暁星(ぎょうせい)学園が科技高と連携した年は、科技高の創立二十周年にもあたり、当時の連携先は41カ所であり、国鉄(現JR)、トヨタ自動車日産自動車松下電工、日本冶金、いすゞ自動車東京電力関西電力日立製作所中部電力など、日本を代表する大企業が「企業内学校」をつくっていた。卒業者の中には、それぞれの企業で幹部になっている方も多く、また、オリンピックの選手も輩出しているし、数年前には、科技高の連携校が軟式野球全国制覇を達している。
私が始めた翌年の昭和60年から平成元年にかけて専修学校との連携が一挙に増え、それらの生徒が企業内学校の生徒数を上回るようになるのだが、昭和59年までは、圧倒的に企業内学校の生徒によって占められていた。そういう意味でも昭和59年は、科技高にとって大きな転換期に向かう年であったといえると思う。
それまでは、どちらかといえば中卒エリート生が入学していた科技高に、高度経済成長を遂げ、高校進学率が向上する中で、進学率94%時代に落ちこぼされた生徒たちが、専修学校などとの連携が進んで、従来タイプの生徒数を上回る時代へと変化していったというわけだ。企業が責任を持って運営し、生徒もまた企業の社員だった形態から、生徒から授業料をとって経営していかねばならない専修学校との連携の形態が多くなっていったということは、従来の教育方針をも見直す必要性が、科技高の側にあったということだと思う。
科学技術学園の創立後間もなくから就任された福田理事長は、戦後に米軍(GHQ)が漢字をすべて廃止してローマ字化を進めようとした時、文部省の課長として、ローマ字化を阻止した立役者の一人でもあり、後に文部官僚のトップである文部事務次官になられた方だった。その後も、日本育英会理事を兼務されていて、超大物理事長ともいえる方だった。
当時の本校校長の飯田吉郎先生も、長年にわたって、定時制通信制高校校長会の会長をしていた方で、とても豪放磊落(らいらく)な方でもあった。
当時の大阪分室長の水田先生は堂々とした風格だったが、緻密で何事にも慎重な方のように思う。水田先生は約束を違(たが)えたことは一度もなかったし、優しい反面、厳しい面のある方だった。
その当時、本校の飯田校長と水田大阪分室長との間には強い確執があり、私は両者の深い溝の中にすっぽりとはまる形となってしまっていたようで、当時の私はそのような事情があるということさえ知らず、結果的には大きく翻弄(ほんろう)されることになった。
「何も知らないものほど怖いものはない」とのたとえ通り、連携教育の法的根拠さえ知らなかった私は、連携契約のために文部省に提出する10センチを超える膨大な書類をPCに向かって格闘しながら作成した経験は忘れられないものとなった。
科技校は、法的整備の整っている大企業内学校とは多くの連携はしていても、その他の連携の経験がなかったのか、大阪分室側に連携契約のノウハウがなかったことが、大きく紆余曲折する羽目になったのだろう。
 
飯田校長との出会い
昭和59年3月、東京から校長が大阪にやって来られ、企業内学校の卒業式の会場に近いレストランでお会いすることになった。初対面の挨拶(あいさつ)の後、食事をはさんでいくつかの質問があり、後は談笑に移ったが、話の途中、校長が、「こういうことを大阪分室で勝手に進めてもらっては困る。認めるわけにはいかん」と同席の大阪分室長の方を向いて大きな声で言われた時は、もはやこれまでかと断腸の思いだった。分室長は、「すでに募集している18名の生徒のために、何とぞよろしくお取り計らいを」と、取りなしてくださった。老齢の分室長が頭を下げてくださったことに、今でも感謝の気持ちを忘れないでいる。
連携契約に関して何の返事も頂けないままレストランを出た。卒業式会場へと向かう時、みんなと離れて校長と私とが二人で歩く形となった。歩きながら校長は私の背中に手を回し、大きな声で、「神戸の人は粋だねぇ……とても気持ちがいいよ。応援するから頑張ってください」と言って、背中をポンと一つ叩(たた)いてくださった。
水田大阪分室長と飯田校長の確執の中で振り回されていたらしいことを、この時に初めて気づいた。大阪分室が勝手にやったことだから許せんと校長は思い、水田分室長は経済成長期に入って企業内生徒の大幅な減少傾向を考慮し、新たな連携校との通信教育の展開のあり方を求めておられたのだと思う。両氏ともに私はご恩をこうむり、尊敬し、お二人とも父親に対するような温かさを感じている。
その日から1カ月後、両先生が一緒におられる場で「教育者として醜い確執はやめてください」という親書を同時に手渡した。あの時、もし両先生が不快に思われていたら、連携契約もなくなっていたかもしれないし、学校設立もなくなっていた可能性だってある。今思えば蛮勇としか思えない、ストレートな行動だった。飯田理事長・校長と水田大阪分室長の確執、そして陰でこの二人の確執に悩まされながら私をサポートしてくださった菊池次長の名を忘れることはできない。3人がそれぞれの立場で、それぞれのサポートをしてくださった結果として神戸暁星学園が誕生したものと感謝している。
最初の年、貸しビルの5階の教室で18名の生徒からスタートした学校は、翌年交通の便利の良い場所にビル(須磨校舎)を買い取り改造して校舎として生徒数は200名を超えた。その翌年には兵庫区に校舎を造り一学年200名で全校生600名、教師50名の学校に育っていった。次回は、連携契約後の苦難を書いてみたい。