中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

お題「一生で一番古い記憶」

お題「人生で一番古い記憶」

 私の一番古い記憶は二歳半のころです。

父が召集され満州事変に送られ、現地での日本兵の無知と暴力に絶望を感じて帰国してから母と知り合い結婚したようです。

 「中国人や満州人は犬や猫と同じだとおもえ」という上官の指示を真に受けて強奪、暴行、強姦をしている仲間の兵隊たちの行動に父は絶望を感じたようで、帰国後は酒におぼれる毎日だったようです。

 そうした中で私が誕生したのですが、子育てがちゃんとできない、料理も下手という母に対して暴行があったようです。

 私が二歳半のころ、淡路島の祖母(父の母)にハガキを送り、大阪に映画を観に来ませんかと誘い、祖母が大阪に出ていくと「一緒に映画を見に行きましょう」と誘いだしたのです。

 途中で「便所に行ってきます」と祖母に私を預けて、そのまま姿を消してしまいました。

 父の酒癖の悪さに愛想が尽きたのでしょう。 父は私を連れて神戸の母の実家へ行き、なんども戻るように促したようですが、母は戻りませんでした。

 何度か神戸に足を運んだとき、

「歌を教えてあげよう」と『赤い靴はいてた女の子・・・』を上手に歌って教えてくれ、写真をくれました。

 その写真を、誰にも見せずに大事に大事にしていました。わたしは、その写真をもらい、歌を教えてくれた人が母だと思っていたのでした。

 二歳半にもなって、どうして母をちゃんと認識していなかったのか不思議でなりません。それ以前の記憶がないのです。

 父が何度も私を連れて神戸へ行った時にも、母は顔を見せなかったからでしょうか。

 母のことは、家族のだれとも話をするなと厳しく言われていたので、道行く親子連れを見るたびに、「僕のお母さんは、あんな感じだろうか」などと想像を膨らませていたものです。

 18歳の時、ふとしたことから母の居場所が分かり再会しましたが、映画のような涙の再会とはなりませんでした。

 その際に、写真の話をしましたら、母の妹だったのです。そう、わたしの叔母になる人です。 母は83歳で亡くなり、叔母も亡くなってしまいました。

 私はいま、89歳と4か月です。古い話ですな。三年前に寝たきりになり、医師も周囲ももう死ぬと思っていたそうですが、こうして元気によみがえり、骨折で料理が出来ない妻に変って主夫を務めて一年二か月目です。料理を作りブログに掲載して元気をもらっております。 料理を作ることが私のリハビリともなってますます?元気でおります。