中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(10)私を私を守ってくれたのはだれなのか 

<父の酒癖の悪さの原因は別にあった>

 

父が酒を飲むと荒れるようになったのは、別に大きな要因があったようなのだ。

中国との間がどんどん悪くなって行ったのは、日本が満鉄を守るためという名目で多くの軍隊を満州に送り込んだからだった。

日中戦争が勃発する前に、満州事変があった。父は満州事変に送り込まれて戦った。そこで、みるに堪えられないひどい戦争の実態を見てしまったことで、性格が変わるほどのショックを受けたらしい。

酒を飲むと暴れるようになったのも、戦争から戻ってきてからだと周囲の者たちが言っていたようだと、古い戦友が語ってくれた。兵庫県の連隊の軍は強かったという。

「またも負けたか八連隊」と言われた大阪の連隊には商人が多く、江戸時代に「年の暮れ代官の名も知らずとは」と川柳が詠まれたほどの土地柄で、商い上手であったが、命を懸ける戦上手ではなかったらしい。

兵庫の連隊は強かったらしい。その理由は、小学校にさえ行っていない学のない田舎百姓の兵士が圧倒的に多く、《シナ人を人間と思うな、畜生と思え》という上部からの命令に忠実で、中国人相手に残忍なまでの戦をし、戦いが終われば民間人相手に傍若無人なふるまいをし、略奪や強姦も好き放題だったようなのだ。

 

兵役に出るまで大阪で十年間働いていた父には、朝鮮人も中国人にも友達がいたという。

広い社会でいろんな経験を積んだ父には物事を判断するちからがあった。それだけに、

「中国人を畜生だとおもえという上官の命令で兵士たちが獣になっていく様に強く反発を感じていたようなのだ。

教育を受けてないやつらは、広く社会を知らないやつらは、こんなにも変わるのかと苦しみ、戦地から帰ってから、荒れるようになったらしい。

 

父は、『戦争はあかん』と何度も呟いたという。あれで人間が変わらない方が可怪しい、恐ろしい狂った世界だった、恐ろしい光景だったと言ったという。父は日中戦争に従軍したために、本当の自分を忘れたのだろうか。

父は十一歳から大阪で働いた。そこで得た様々な知恵は、父を大きく成長させたであろうし、戦争に行くまでの十一年間に社会を見ていたはずだ。

父の友人たちは、だれもが父のことを褒め、親分肌で頼れる優しい人だというのだ。酒が悪いのか、当時の軍隊の統制の悪さが原因か、日本陸軍のありかたがわるいのか、指揮官に問題があったのか。父は荒れる人となり、二歳半になったばかりの子供の人生に波乱が生じさせたのだった。

 

 兵庫の連隊は強かったのかと事実を調べようとしても確証が取れない。

兵庫県の場合、洲本市三原郡津名郡という淡路島の兵営は、ある時期には和歌山に入営させられ、ある時は岡山に入営させられているのだが、いつから何時迄という区切りさえ判明しない。大阪の連隊に入っていたこともあるようだ。

 のちに姫路の連隊に入ることもあり、終戦の年には神戸連隊区に統一されたこともあり、陸軍の組織に安定感がない。

 父が二度目に入営した昭和二十五年一月の場合は姫路だった。

面会に行ったので間違いない。このように日本の陸軍は組織さえ安定せず、なんども何度も組み替えていることがよくわかる。

 また、どこに出兵したかも定かでない。兵庫県の一部の連隊の出兵地は分かっているが、それはほぼ全滅したからである。ビルマなどがその例だ。

 父の場合、最初の入営から三年間、どこに配属されたのか、本人以外には確認できなくなっている。