中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(11)私を私を守ってくれたのはだれなのか 

<徴兵検査の実例>

 

 そこで、徴兵制度について書いておこう。これも確かなものは多くないが、岡山県が保存していたものがあり、それを参考にしたい。

 徴兵制度について

 満年齢が二十歳になった翌年の一月に徴兵年齢に達したとの連絡が役所より来る。その年の四月、五月に学校などを利用して身体検査が行われる。身体検査で甲種合格したものは、翌年一月一〇日に定められた連隊に入営する。任期は三年間である。

 これを、父の場合に当てはめてみたい。一九二八年一月に役所からの連絡を受け、その年の五月前後に身体検査を受けただろう。体は大きく甲種合格だったことは疑いようがない。そして、一九二九年一月に入営したはずであるが、どこに入営したのかは分からない。

 3年後に除隊し、母と知り合い結婚し、わたしが生まれることになる。

1929年当時のさまざまな世界と日本を見てみよう。前年の六月四日に満州に戻ろうとした張作霖を乗せた列車を鉄橋ごと爆破して暗殺したのが関東軍の一部であった。

この事件の調査を厳しく調べるように天皇から要求があったにもかかわらず、政府も軍も調査を怠った。

そのため、1929年7月2日、天皇の叱責を受けて、内閣総辞職に至っている。政府も軍も犯人を知りながら明らかにしなかったのだ。

 この当時のことは、浅田次郎氏の著書「蒼穹の昴」(文庫版全4冊)に続く「珍妃の井戸」「中原の虹」(4冊)「マンチュリアン・リポート」「天子蒙塵」(4冊)までの14冊に詳しく書かれていて楽しく読ませてくれる。

 日本はこの年に、中華民国政府承認を与え、蒋介石の総督就任を認めている。

この年の十月にニューヨーク株式市場の大暴落が引き金となって、「世界大恐慌」が発生し、世界中を不況の中に突き落とした。日本も、千九百二十年からの三年間は国家の危機にまで陥った。

 世界各国は、アメリカとの貿易が途絶え、経済が衰弱していく中で、中国を餌場として選び浸食を始めた。

 すでに、英国はインドと言う巨大国を植民地化していたし、そこで採れるアヘンを中国からの綿花輸入などで発生した赤字の埋め戻しに利用した。多くの中国人がアヘン中毒になる中、英国は中国国土をどんどんと削り取っていった。

 他国も追従して中国の植民地化は時間の問題となっていたが、英国の政策に不満を持った中国国民が立ち上がった中国と英国との間に「アヘン戦争」がぼっぱつした。

 結局は、条約によって香港などが切り取られた。というようなことがすでに起こっていた。

 日本は、浸食の地を中国の東北と狙い定め満州に持っていた満鉄の線路を守るという名目で、たくさんの兵を満州に送り、駅を守るという名目で駅の周辺四キロに兵を配属するなど、満州を己が土地のように浸食していった。

 満州馬賊出身の「張作霖」(ちょうさくりん)は巨大な勢力を持つに至っており、中国の正規軍にも組み入れられていたので、張作霖を消せば中国を攻略しやすくなると考えた関東軍の一部が爆死させたのだった。

 張作霖には張学良という素晴らしい息子がいたので、事は簡単ではなかったが、日本の満州に向ける目は、どう猛であった。

 このように、世界が経済第恐慌にあり、ヨーロッパ色がアジア各国を植民地化して言っていた時期である。おおまかに言えばインドネシアはオランダの植民地であり、フイリピンはスペインの植民からアメリカ領とされた。英国はインドと、ビルマを植民地としていたし、フランスはベトナムを植民地としていた。

植民地主義が権益をもたらし、国の地位を高めることをしった国は、われわれも植民地を持ちたいと思うようになる。

 当時の世界は激動期を迎えていた。それに触発されて日本軍が手を広げて行った。

1920年からだった。これが、第二次世界大戦の引き金ともなっていくのだった。

 父は最も不幸な時期に入営し、辛い思いを味わうことになったのだと思う。

生まれ合わせた年代の影響かと思える。 父の誕生した時期が不運の始まりだったのだと思える。

 昭和20年の終戦の年に、二度目の徴兵をうけ、終戦時には朝鮮半島の38度線ぎりぎりのところに駐屯していて、指揮官はポツダム宣言を熟知していて、北側がロシアに、南側が米国に託されることを知っていて「日本は米国とは戦ったが、ロシアとは僅か二週間ばかりだ。だから、北側に移動しておこう」と部下に指示した。

 ところがアメリカ軍が駐留してきた地域は大切にされ、ロシアが進駐してきた地域の日本兵は、貨物列車に積み込まれ、極寒のシベリアに送られ、長い抑留生活につながったのだった。

 不運としかいようのない人生だった。

「この子の面倒をだれが見るかが家族内で問題化していた」

  話を戻す。

 父は十一歳から大阪で働いた。そこで得た様々な知恵は、父を大きく成長させたであろうし、戦争に行くまでの11年間に社会を見ていたはずだ。

 父の友人たちは、だれもが父のことを褒め、親分肌で頼れる優しい人だというのだ。酒が悪いのか、当時の軍隊の統制の悪さが原因か、日本陸軍のありかたがわるいのか、指揮官に問題があったのか。父は荒れる人となり、二歳半になったばかりの子供の人生に波乱が生じさせたのだった。