中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(19)

育ての母が亡くなったという知らせが、はがきで届けられて後、しばらくたって
神学校を退学した。
実は、前年に長らく探し求めていた生みの母をやっとのことで探し当てた時、
私は喜び勇んでそのことを叔母に伝えたものだ。
あとで、他の叔母から育ての親である叔母が「やっぱり、人の子は育てても甲斐がないな~」と
言っていたと聞いて大きなショックを受けていた直後に逝去を知ったので、なおさらのように
私には辛いことだった。
私が生まれてから20歳になるまでに、愛されたと感じるのは育ての親であるこの叔母だけだった
のである。再会した生みの母にも愛を感じることはできなかった。だから僅か半年余りで別れを
告げたのだった。行き先さえ告げなかった。
でも、育ての母叔母は別の子供(私のいとこに当たる女性)を育てていたので、その子に叔母をとられた
ような気がしていて、近づかなかったものだ。
 
私は、この時にも天涯孤独ではなく、父の11人兄弟姉妹の内、父と他の兄弟二人の3人が戦死
(父も戦死扱いとなっていた) し、育ての母が胃がんで亡くなても残り7人が身寄りとしていることになる。
叔父が3人、叔母が4人だ。
しかし、育ての母以外は、父の悪口を言われるのが嫌で寄り付かなかった。
後に、育ての母と同じような性格の四女の叔母と親しくなり、叔母の家族とも家族同様に親しく
つきあっているが、当時はまだ若くて付き合いはなかった。
 
今も「天涯孤独」を感じながらも、実は身寄りがいるという若者が多いに違いない。
今思えば・・・・・・だが。
自分から身内との縁を断ち切って、孤独の中で苦しみのたうちまわっていたように思える。
神学校当時、毎月500円を送金して下さっていた薄さんにも顔を合わせられない心境だったし、
島の内教会にも顔を出したくなかった。神学校を中途退学したと言うことは、敗北者になったような
思いだったのである。
神学生は、どこの教会へ行っても歓迎されたし、神学校時代などは、各地からキャンプに訪れる
若いクリスチャンに対して、キャンプ指導、聖書研究など、いつもリーダー役であっただけに、
神学生でなくなった後は、ただの無職の青年にすぎない。
 
なんとか仕事をと思う気持ちは募っても、20歳にある青年をおいそれと雇ってはくれない。
現在のようにアルバイト生活できるような気楽な時代ではなかったのだ。
ここから、私の人生におおきなインパクトを与える経験をすることになる。
それは2月と言うとても寒い月に1か月間も野宿をしたのだ。
このことを私の著書「教育の原点をもとめて」の中に書いた。ある若者が言った。
「中原さんもホームレス時代があったのですね」・・と。
バカ言っちゃいけない・・・今のホームレスってあまりにも恵まれているではないか。
段ボールで囲まれ雨露を防ぎ、沢山の鍋釜などもそろっている。大阪城公園の川沿いに
あるホームレス集団を見たが、バッテリーやTVまで揃っている。着ているものもきれいだ。
食べ物にもさほど困らないのだろう。コンビニへ行けば、賞味期限の切れた弁当が捨てられるからだ。
私が経験した「野宿」とは、そんな生易しいものではない。