中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(18)

(16)(17)の記述の中に思い違いがあったので訂正しておいた。
なにしろ古い話なので、ご勘弁願いたい。
 
さて、本格的な苦労が始まる。これまで、自分ほど不幸なものはいないと考えたことも
あり、自殺を考えたことも何度かあった。それなりに乗り越えてきたが、未成年だったので
保証人がいなくても、住み込みで働かせてもらえた。
神学校を中退して大阪に戻ったのはいいが、働き口がない。
大阪には父の妹たちが3人いる。一人は、私を育ててくれた伯母であった。私が「お母ちゃん」
と呼んでいたひとだった。しかし、この伯母は、私が中退する1か月前に胃がんで亡くなったのだ。
私にとっては、私を愛してくれたたった一人の人のように思っていただけに、ショックだった。
そのうえ、伯母の亡くなったことを葉書で知らされたこともショックだった。どうして電報で知らせて
くれなかったのかと悲しかった。
神学校を中退したのも、この時のショックも影響している。伯母が亡くなった知らせを受けた1カ月
後に中退を決意したものだ。
大阪には、他にも二人の伯母さんがいたが、身内の人達は父のことを悪く言うので、私は近づきたく
なかった。ほとんど一緒に生活したことのなかった父であっても、私にとってはたった一人の父である。
悪く言われることには、猛烈な反発心があった。その反発心が、私を育てたと言えなくもない。
 
とにかく仕事がない。
新聞の募集広告には沢山の募集はあったが、「パン店の住み込み」は、低血圧の私には
きつい仕事に思えていけなかった。「キャバレーボーイ」の募集は多かった。当時は信じられない
ほど多くのキャバレーがあったものだ。当時のうぶな私には、それがどういうものか知らなかったが、
キャバレーの前まで行って様子を見ていて大体の想像はついた。
当時は、水商売がいいのか悪いのかも知らないほど純粋無辜な青年だったが、キャバレーボーイ
なるものの仕事は見学しているだけで理解できた。そして、私には向かない仕事だと言うことも。
 
毎日、歩いた。御堂筋を南北に歩き、反対側を北南にあるく。次いで、次の筋を南北に歩く。
そしてまた次の筋をと・・1日中歩きとおした。店にある「人募集」の張り紙を求めて歩くのである。