中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

人生の岐路のいろいろ ③

 このタイトルで私の人生を語ろうとは思っていません。

たまたま、15、歳18歳、22歳という節目の岐路について

書いていて、ああ・・そうだ、私の15歳の時はこうだった。

18歳の時は、と思い出したからにほかない。しかし、まずは

前回の続きを書いておこう。

 賀川豊彦氏と聞いても知っている人は少ないかもしれない。

キリスト教の牧師であり、社会運動家であった。だれもがよく

知っているのは神戸コープ生みの親だということだ。農協の

基本的な理念も賀川豊彦氏のものからだと思っている。

 母親のもとを去って、ちょうど淡路島で行われていた活動

に加わった。薬問屋で住み込み店員をしていた頃、どういう

わけか日曜日に教会に行くようにと勧められた。当時は月に

一度(月の初めだけ)しか休みがないのが普通だった。神戸でも

大阪でもそうだった。店の2世代夫婦は協会とは全く関係ない。

それなのに、どうしてわたしに教会に行くように勧めたのだろう。

日曜日の午前の2時間がお休みできるのも嬉しかったので、何気なく

教会へ行くようになった。そこでいただいた旧約聖書新約聖書

信仰と言うよりも、私に読書の楽しみを味わわせた。文語体で書かれた

ものだったが、文語体を難しいとは全く思わなかった。あの分厚い

2冊の本の読み進むことが出来たのは、その後の「本の虫」になる

きっかけだった。 大阪で住み込んでいた時も、日曜日の2時間だけ

特別に休ませてもらって教会へ足を運んだ。島之内教会という立派な

教会だった。その教会の牧師夫人の私への接し方が、後に高校を作った

時に生徒に向き合う姿勢につながったと思っている。 母のところに

いたときには向日町教会に行っていた。そしてみんなから「中原旋風」

と言われる活動をしたのだったが、この活動が淡路島での活動に活きた。

 淡路島で18歳のとき、賀川豊彦先生との出会いになる。その時、

何気なく牧師になろう!と軽々しくも思ったのだ。ところが高校を

卒業していない私が牧師へのみちを歩めるはずもない。 テントを

張っての活動の中で、この活動の中心的な役割をされている岩崎

牧師から意外な言葉をいただいた。 中原君、君は牧師になる気は

ないか?と。賀川先生の熱気に「牧師になりたい」とは思ってみた

ものの、なれるはずがないとも思っていた。岩崎牧師の言葉に対し

て、僕は学歴がないから・・といった。岩崎先生は、君なら大丈夫だ、

その道を作ろう、と言ってくださった。それから1か月後に、私は

兵庫県加西郡にある飯盛野教会に付属する伝道学校の学生になっていた。

この学校を出ても牧師になれるわけではない。日本基督教団立の神学校の

予備校的な学校だった。午前中は田畑で働き午後は授業を受ける生活だった。

そして、やがて東京にある神学校へと進学することになる。6年制の学校

で、やはり午前中は田畑で働き、午後は授業で詰まっている。一般教養科目

は当然のこと、聖書学、説教学、語学は英語の外にヘブライ語も。

 結果的に、1年で中退した。わたしには住み込み店員として貯めた貯金

しかない授業料免除ではあったが、後が続かない。 だが。ここで学んだ

ことは数多くわたしの肉となり血となっている。しかし、教会へは行かなく

なった。信仰から離れたのである。