中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

あんなこともあった(12)

宣教師たちとの想い出を書こうと書き始めたのですが、私の18歳から20歳までは、あまりにも多くのことがあって、書いているうちに、青春のほろ苦い味が身体中に満ち、頭の中はほろ苦さで満ちてしまいました。

だから、あの頃のことは書かないほうが気が楽になるかもと思ってます。

とにかくは続きを書きましょう。

東京多摩にある神学校に入学しました。賀川先生の特別?の計らいがあったのでしょうか。

神学校での授業内容は幅広く深いものでした。

5年間の予定で入学したのです。

教科は数学以外のすべてと、聖書学(新約、旧約)

説教学、神学(佐藤優さんは、同志社大学の神学部で学んだことが、人生の大きな糧となっていると仰っていますが、それほど深いものです)他にピアノ、オルガン。

3年生からはヘブライ語もあるのです。

午前8時から午後12時半までの4時間半、休み無しの授業が続きます。かなりハードな授業です。

午後1時半からは、農作業です。

広大なキャンパスは、現在は近代的な都市と化していますが、ともかく大きな敷地でした。

関東ローム層に覆われた高倉台地がキャンパスでした。農作業は子供の頃から一人前として働いて来たので自信はありましたが、作物は全く違うものでした~新しい経験をたくさん積み重ねました。

午後の農作業の他に牛舎当番という月もありました。朝4時に起きて湯を沸かし、乳牛をきれいに洗い、搾乳をする。バケツを股で挟んで両手で搾乳をします。これが大変な作業です。

搾乳が終わると牛乳を沸かし、一瓶ずつ詰めて蓋をし、自転車で200軒に配って回る。かなりしんどい作業です。牛舎当番は3ヶ月単位でした。

私は、食堂担当のおばさんに気に入られて、その後はずっと食堂当番を続けることになりました。

生徒数は、女子の保育科(50人)を加えて150人。

教授陣は20人ほどでした。それだけの人数の食事をおばさんと二人で作るのです。

国際キリスト教大学の教授も神学校の講師に来られていました。

宣教師もキャンパス内に住んでいる常任が3人いましたが、今も名を覚えているのはマッシューズ先生だけですね。

授業料など全部が無料という特待生でしたが、日常品などは当然自分持ちです。

15歳から働いて貯めた貯金も底をつき、空き時間をバイトで稼がねばやっていけません。

そういうとき、マッシューズ先生宅の車を洗い、ワックスがけをし、雑草取りなどをしてバイト代を頂いていました。

英会話レッスンは無料でやってくださった。

それで夏休みに、長野県にある乙女の湖とも言われる野尻湖湖畔の別荘でのアルバイトに繋がったということで(10)の話につながるのですが、、、

書き急いでしまったので、面白くもなかったですね。ごめんなさい。

あまり若い頃の話は書かないほうが良さそうですね。楽しかったことと苦しかったことが同時に思い出されて、ちょっと息苦しくなってしまいました。