中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(43)私を守っているのはだれなのか

日本基督教団には伝道師、牧師養成機関がいくつかあるのです。。

教団立としては、三鷹市にある日本基督教団東京神学大学と、日野市にある農村伝道神学校のふたつで、後者はアルフェレッド・ストーン宣教師が理事長だった。

 私が入学した1954年の9月に青函連絡船の洞爺丸沈没事故の際、ストーン宣教師は、沈みゆく多くの乗客をすくいながら、自らは海に死んだことで大きく報道された人だった。

日本基督教団の認可神学校としては、同志社大学・神学部、関西学院大学・神学部があった。

  東京へ行くのは、これが二回目であった。角田さんのところで、ご家族も一緒に東京見物に行って、はとバスにも乗って都内観光をし、銀座で人気のウナギ屋さんにも連れて行っていただいたものだ。

今回は、ぼくにとっては「夢の教養を積むため」の東京行きだったのだ。大阪から急行に乗り、東京駅では、以前に角田さんに教わっていた駅構内での大浴場でひと風呂を浴びた。都内観光はいつでもできるので、寄り道をせず、中央線に乗って日野駅に向かった。

 日野駅の北側は切り立った崖のようになっていて、坂を上ると広大な台地が広がっていた。進むうちに教会と幼稚園が見えてきたが、そこからが神学校の巨大な敷地だった。現在の「日野団地」と呼ばれる場所がほぼキャンパス内だったというわけである。

校門のようなものはなく、教会から奥はトウモロコシ畑が広がっていて、そのまま進むと、建物が見えてきた。事務所で手続きを済ませ、寮の中の一つの部屋があてがわれた。 大野さんという、隠岐の島出身の三十歳の方と同室だった。

二段ベッドがあり、机が一つと椅子が一つしかない。大野さんは、任しておけ、俺についてこいと言って、寮の裏に広がる武蔵野特有の林の中に入っていき、適当に木を切って持ち帰り、一時間ほどで、机といすを作り上げた。見事なほどに上手に作ったのでおどろいたり、感心したりだったが、彼は、このぐらい出来ないと、農村伝道などできないぞと言ったので、なるほどと感じ入った。

 大野先輩には、その後もいろいろと教えられたものだ。素晴らしい先輩と同室にしてくださったのはありがたいことだった。ところで、自分で作れない人はどうするのですかと訊くと、店で買って持ってくるのよという。なるほど、そうかと思うほかなかった。

『あのね、金がある人は買えばいい。ないものは、作るほかない。たいていのことは自分でやれてなんぼだよ』それは分かっているつもりだったが、大野さんの素早さには兜を脱いだ。入学初日から、こんな具合だったから、今後何が起こるのかと不安もあった。

巨大なキャンパスのほとんどが農園となっており、春休みにも多くの生徒が残って作業を続けているものもいる。

 私は、特待生として受け入れられ、授業料、寮費は全額免除、食費は午後の農作業のポイントでほとんど賄える仕組みだった。

朝食が終わり、午前八時から、休みなしで十二時までの四時間、ぶっ続けに授業が行われる。旧約聖書学、新約聖書学、説教学、英語、ギリシャ語、ペルシャ語、農学などだ。英語以外の外国語は、聖書の原典を調べるときに役立つ程度のもので、週に二時間だけだ。

のちのち大いに役に立ったのは、説教学の授業だった。教授が教えかたが上手だったのだろうが、これほど役立ったものはない。 特に印象に残っているのは『聖書の言葉は、とても奥が深くて難しい言葉が多い。その言葉を、だれにもわかりやすく崩して話すと、書かれている真理が相手に伝わらないし、場合によっては誤って伝わってしまう。だから、いかに聖書に書かれている真理を、正しく優しく話せるかということを、磨かなければならない、それができるということは、すなわち、聖書を理解したことにもなるからだ」と。

この言葉は、聖書に限ったことではなく、この教えは、その後の社会生活で広く応用できた。あのときの学びが生涯の中で大きく役立った。社会的地位が高い人にも、取り上げられている問題を別の視点から述べることで理解してもらえる。わたしが高校設立した際のさまざまな困難な交渉時にも役に立ったとおもっている。

 神学部の教室は五つあり、最も広い教室にはピアノが置かれている。ほかの教室には、一台ずつオルガンが置かれていた。土曜日の午後には、ピアノのテストがある。だが、教室のピアノは、触っていけないことになっていた。生徒たちは、朝四時ごろに起きてオルガンを奪い合った。台数が少ないから、一人につき半時間でバイエル教則本の練習をするのだ。オルガンで練習をして、土曜日には、ピアノでテストを受ける。無茶苦茶と言えば無茶なことだが、農村伝道では役立つだろうともおもえた。私的な時間があればオルガンに向き合い、賛美歌を弾けるように練習を重ねたものだ。

《午後は作業》

 午後になると作業の割りあてが発表される。四年生がリーダーとなり、それぞれ分かれての作業だった。経験したことがない作業もたくさんある。

夏休みは長い。それぞれ家路につくが僕は何の予定もないことを、宣教師は知っていた。これまで、アルバイトとして、時おりマシューズ先生の愛車の洗車とワックスがけをしていたし、また、数人で英会話のレッスンを受けていた。発音のむつかしさを始めて感じたのもこのレッスンだった。ぼくには同じように聞こえるのに、違うという。わずかに唇の使い方、舌の使い方で音が変わるというが、ぼくの耳には同じに聞こえる。だからこそ英会話はむつかしい。サンというときに、舌を口の外に出してからいうと正しい発音になる。ベリーマッチを発音する場合には、下唇を上の歯で軽く噛みながら発音する。教わったわたしが、そのようにして発音すると、先生は褒めてくださるのだが、舌を出したり、唇をかんだりしながらの英会話は難しい。

マシューズ宣教師が、夏休みのうちの二十五日間だけ、野尻湖の別荘に行くので、アルバイトに来ないかと誘って下さった。 長野県の北のほうにあり、乙女の湖という別称がある野尻湖の湖畔に別荘があるという。

嬉しくありがたいお誘いだった。往きは車で移動したので、どこを通っていったのか定かではないが、信州という所がいっぺんに好きになってしまった。これほど素晴らしいところが日本にあったとは知らなかった。信州はどこに行っても素敵な所があることを後にも知った。信州に魅せられたというほうが適切ないいかたかもしれない。

別荘地は、野尻湖の東の班尾山(1383m)の中腹から裾にかけて広がっていた。最近の観光地は野尻湖の西に広がっているようだが、当時は閑散とした地であった。

別荘地の住人の九十%が外国人で、当時のNHKの英語ラジオ講座の講師も近くに住んでおられた。別荘はどれぐらいあったのかは覚えていないが、湖の東斜面はすべて別荘地だったから、五百戸以上はあったのではないだろうか。

宣教師に聞くと、欧米では夏には長い休暇を取って避暑に行くのが普通であって、それほど珍しいことではないという。

ぼくのする作業は、湖畔の井戸から水を汲んでくることが主なことだった。淡路のころと違って、ブリキ製の桶は軽く井戸から五百Ⅿの緩やかな坂を上るのはさほど苦にならない。それにしても僕は水汲みと縁のある身だなとおかしくなった。

水汲み以外は、家の周りの草取りをしていた。奥さんの英語の勉強は思ったほど進歩しなかったが、日常会話程度はできるようになっていた。

 奥さんの料理にも興味があってよく見ていたものだ。信州は当時からレタスが豊富だったのか、サラダによく使われていた。サラダを食べたのは、この時が生まれて初めてだった。

奥さんのサラダ作りは簡単で、ボールにレタスをちぎって入れ、トマトを大きく切って放り込み、オリーブ油をかけて、塩を少し入れてかき混ぜるだけだ。作るのに五分ぐらいもあれば足りるというほどである。すべての料理にあまり時間をかけなかった。ぼくには、おいしいとは思えなかったが、西洋人はこれでいいのだろうなと、受け止めていた。あとで分かったが、おいしい料理は、ときたまレストランで食べるものだという。

別荘でのアルバイトと言ってよいのか、別荘に同居させていただいた感じの期間が終わって、学校に戻った。夏休みはまだ続いていて、日本各地から若い人たちがキャンプに来ていた。毎年のことのようだった。

各地から集まった若人たちのためにキャンプファイヤーを企画した。キャンプソングを指導するなどリーダーシップを存分に発揮できたが、神学生というだけで、特別の人のような扱いを受けることには、なんだか違和感もあった。日々、次々とくる若人たちに十回ほどキャンプファイヤーをした想い出は、とても素晴らしい日々になった。

 <帰省していた学生たちが戻ってきて二学期が始まる>

トウモロコシ畑が広大で、刈り取ったものを大きなカッターで刻み、ベルトコンベアーで十Ⅿを超えるサイロに入れていく。大変だが、はじめての作業であり、サイロというものを知った。酪農にはサイロが必須なのだ。これらの作業は大掛かりですべてが初めての経験だった。

トウモロコシは食用のものでなく、飼料用で食用のもととは種類が違うが、まだ大きく育ってない頃に、大野さんが畑からトウモロコシを取ってきて、部屋でニクロム線が渦巻きになっている電熱コンロで焼いて食べた。生涯で初めて食べたトウモロコシだったが旨かった。

日野台地とは、中央線から甲州街道を超えてずっと続いている台地で、すべてが「関東ローム層」という地層だった。富士山の爆発で積もった土が深いところで約二十メートルもあるらしい。ローム層は関東一円に広がっているが、この辺りが最も深いようであった。

それゆえに、水が溜まらず水田は作れないので、水稲も作れない。陸稲といい、通常〈陸米、おかまい〉と呼ばれるものが作られていた。水稲のような粘りがなく、パサパサとして、おいしくない米だが徳川時代も多くの庶民は「おかまい」をたべていたのだろう。

この辺りは新選組局長の近藤勇の出身地に近い。たぶん彼も〈おか米〉を食べて育ったのだろう。