中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(42)私を守ってくれたのはだれなのか

 

東京へ向かう日が来た

いよいよ東京へ向かう日が来た。北条駅から電車に乗った。駅には友人となった二人が見送りに来てくれた。藤木さんに、もし手紙をくれるのならここに出してほしいと今里の叔母の住所を書いて渡した。

わたしが、叔母の家に到着して、神学校へ行くことになったいきさつを話した。叔母は、ぼくが母の所にいると思っていたので大いに驚いた様子だった。二時間ほど経って突然藤木さんが叔母の家に来た。

どうしてと問う私に、おばあさんが追っかけて行きなさいと言ったのでという。おばあさんは、どうしてそんなことを言ったのだろうか。

叔母と三人で飯盛野教会のことなどを喋って過ごしたが、早く帰りなさいという私の言葉に、叔母は「今晩は泊っていきなさい」と彼女にいい、泊ることになった。

泊まるのなら、ここまでわざわざ来た理由も話してくれると思ったが、彼女は何も話さなかった。

夜遅く、二階に上がると布団が一組だけ敷いてある。叔母はすでに十九歳になっている僕と彼女が男女の仲だと勘違いしたようだ。二人で朝方まで話をしたが、彼女は私に何かを求めるでもなかった。二人は仲良く手を取り合って眠った。

叔母だけではなく、彼女もまさか十九歳の僕が、まだ性欲もなく、男女のことをしらない男だとはおもえなかったのだろう。たぶん勘違いしたままで別れることになったのだろう。

 結局彼女は、ぼくが教えた学校のアドレスに手紙も送ってこなかった。どうして、おばあさんが、追っかけろと言ったのか、それも嘘なのかもわからないままに縁が切れた。

 

日本基督教団には伝道師、牧師養成機関がいくつかある。

教団立としては、三鷹市にある日本基督教団・神学大学と、日野市にあった農村伝道神学校のふたつで、後者はアルフェレッド・ストーン宣教師が理事長だった。私が入学した1954年の9月に青函連絡船の洞爺丸沈没事故の際、ストーン宣教師は、沈みゆく多くの乗客をすくいながら、自らは海に死んだことで大きく報道された人だった。日本基督教団・認可神学校としては、同志社大学・神学部、関西学院大学・神学部があった。

東京へ行くのは、これが二回目であった。角田さんのところで、ご家族も一緒に東京見物に行って、はとバスにも乗って都内観光をし、銀座で人気のウナギ屋さんにも連れて行っていただいたものだ。

今回は、ぼくにとっては「夢の教養を積むため」の東京行きだったのだ。大阪から急行に乗り、東京駅では、角田さんに教わっていた駅構内での大浴場でひと風呂を浴びた。都内観光はいつでもできるので、寄り道をせず、中央線に乗って日野駅に向かった。

日野駅の北側は切り立った崖のようになっていて、坂を上ると広大な台地が広がっていた。進むうちに教会と幼稚園が見えてきたが、そこからが神学校の巨大な敷地だった。現在の「日野団地」と呼ばれる場所がほぼキャンパス内だったというわけである。

校門のようなものはなく、教会から奥はトウモロコシ畑が広がっていて、そのまま進むと、建物が見えてきた。事務所で手続きを済ませ、寮の中の一つの部屋があてがわれた。

大野さんという、隠岐の島出身の三十歳の方と同室だった。

二段ベッドがあり、机が一つと椅子が一つしかない。大野さんは、任しておけ、俺についてこいと言って、寮の裏に広がる武蔵野特有の林の中に入っていき、適当に木を切って持ち帰り、一時間ほどで、机といすを作り上げた。見事なほどに上手に作ったのでおどろいたり、感心したりだったが、彼は、このぐらい出来ないと、農村伝道などできないぞと言ったので、なるほどと感じ入った。

大野先輩には、その後もいろいろと教えられたものだ。素晴らしい先輩と同室にしてくださったのはありがたいことだった。ところで、自分で作れない人はどうするのですかと訊くと、店で買って持ってくるのよという。なるほど、そうかと思うほかなかった。

『あのね、金がある人は買えばいい。ないものは、作るほかない。たいていのことは自分でやれてなんぼだよ』それは分かっているつもりだったが、大野さんの素早さには兜を脱いだ。入学初日から、こんな具合だったから、今後何が起こるのかと不安もあった。

巨大なキャンパスのほとんどが農園となっており、春休みにも多くの生徒が残って作業を続けているものもいる。

私は、特待生として受け入れられ、授業料、寮費は全額免除、食費は午後の農作業のポイントでほとんど賄える仕組みだった。

朝食が終わり、午前八時から、休みなしで十二時までの四時間、ぶっ続けに授業が行われる。旧約聖書学、新約聖書学、説教学、英語、ギリシャ語、ペルシャ語、農学などだ。英語以外の外国語は、聖書の原典を調べるときに役立つ程度のもので、週に二時間だけだ。

のちのち大いに役に立ったのは、説教学だった。教授が教えるのが上手だったのかもしれないと思えるが、これほど役立ったものはない。

『聖書の言葉は、とても奥が深くて難しい言葉が多い。その言葉を、易しく崩して話すと、書かれている真意が相手に伝わらないし、場合によっては誤って伝わってしまう。だから、いかに聖書に書かれている真意を、正しく優しく話せるかということを、磨かなければならない、それができるということは、すなわち、聖書を理解したことにもなるからだ」と。

この言葉は、聖書に限ったことではなく、この教えはほかにも広く応用できた。あのときの学びが生涯の中で大きく役立った。社会的地位が高い人にも、取り上げられている問題を別の視点から述べることで理解してもらえる。高校設立の際のさまざまな交渉時にも役に立ったとおもっている。

神学部の教室は五つあり、最も広い教室にはピアノが置かれている。ほかの教室には、一台ずつオルガンが置かれていた。土曜日の午後には、ピアノのテストがある。だが、教室のピアノは、触っていけないことになっていた。生徒たちは、朝四時ごろに起きてオルガンを奪い合った。台数が少ないから、一人につき半時間でバイエル教則本の練習をするのだ。オルガンで練習をして、土曜日には、ピアノでテストを受ける。無茶苦茶と言えば無茶なことだが、農村伝道では役立つだろうともおもえた。私的な時間があればオルガンに向き合い、賛美歌を弾けるように練習を重ねたものだ。