中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(40)私を守ってくれたのはだれなのか

 日本輸送機に中卒の社員が入ったのは私が最後ではあるまいかとおもう。伝手が良かったとはいえこんな大企業に入れたことはラッキーなことだったのかもしれない。

しかし、私は巨大な組織の中で、小さな歯車となって生きたくはない。もっと夢を大きく持ちたい、自分の意志で生き抜きたいとおもう気持ちが大きくなっていた矢先の母の言葉だったのだ。

 神足での約半年間に、さまざまな出会いがあったし、それぞれによき出会いでもあった。けれど、結局は母を苦しめた半年間だったと気が付いたのだ、私は自分の願望で母を求め続けた。

 そして偶然というか、弾みと言おうか、事の勢いで母と再会できたが、母の生活の場に土足で踏み込んだ形となってしまった。

こうなってしまった以上、母と再会しましたと、周囲の人たちに大声で喜びを叫んで伝えた人たちに、なんと言えるだろうか。住田さんにも、事のいきさつを伝えることさえも憚られた。

 だれにも言わないでおこうと決めた。母や木村さんを非難する気になれなかった。当分は母の家を出たことをみんなに黙っていよう。

 結果的には、自分がこれまでより以上に孤立してしまったが、だれもが、母の許で幸せに暮らしていると思っていることだろう。

 同級生たちは高校を卒業し、あるものは大学に進学したかもしれない。だが、高校の三年間以上の学びを自分はしてきたぞという自信はあった。何もかもが無駄ではなかったと思えることが救いだった。

 どこに行こうか。何をしようか。 まるで迷子同然だった。いつまでうろうろしているんだよ。しっかりしろよと、自分で励ますよりほかない。相談するひともいない。持ち金は多くない。遊んでいては暮らせない。

 そういう時に、奈良さんたちの顔が浮かんだ。八人みんな素晴らしい人たちだった。湯浅電池の課長もいた。森安牧師のいる向日町教会へ行ってみようかと思ったが、なぜか志筑の教会へ行こうと決めた。

 そのことが次の偶然につながっていくのだから人生って本当に不思議だ。

 絶対に、この島には戻らぬつもりだったのに、あの蔵を改造した教会に行った。

偶然なことに、その日曜日の礼拝に、名高い賀川豊彦先生が来られていた。

 賀川豊彦先生は、神戸生活協同組合(コープ)を作ったことでも知られ、神戸市中央区には現在も「賀川豊彦会館」もある。全国に各種生協が生まれる素地を作った人なのだ。先生の著書「死線を超えて」を読んだこともあり、このような田舎の教会に来られたことが不思議だった。

 礼拝が終わって、みんなが帰ってしまった後、なぜか私に語り掛けてきて、一時間ほども私の来歴を尋ねられた。いろいろ三年間のことをお答えしたが、突然にこういわれた。

『奥山君。君にはやらねばならないことがある。君の使命だと言ってもよい。

君は、わたしと同じように伝道の道に進みなさい。君にぴったりの使命だよ』と。

 そして、続けてこういった。

『これからね、淡路島一周の伝道集会を二か月ほどするのだけど、先頭に立ってやってくださるのは、飯盛野教会の岩塚先生なのだよ。岩塚先生のところには、

「飯盛野伝道学校」もある。この淡路島の集会に君が参加し、それが終れば、岩塚先生の許で半年間学びなさい。そうすれば、本来は高卒以上でなければ入学できない日本基督教団立の「農村伝道神学校」に推薦で入学できるように手配してあげるが、どうかね』と。

学費、寮費、食事すべてが無料になる特待生になるように手筈するからと言って下さる。

「農村伝道神学校」は、新宿から出ている中央線の日野駅近くにあり、神学部(しんがくぶ)と保育科が併設されている。四年で卒業したのち、日本基督教団の試験を受け、合格すれば「伝道師」「牧師」となれる。この学校は、農村部の伝道を推進するために、賀川先生などが努力して作られた学校でもあった。

 創始者は、カナダ出身のアルフレッド・ストーン宣教師で、私が入学した年の1954年の9月26日の、青函連絡船「洞爺丸沈没事故」で、沈みゆく多くの人を助け上げながら、自らは亡くなったことで新聞記事に大きく取り扱われたことでも知られている。

 賀川先生から「君の使命は伝道の道に入ること」と言われた言葉に感動を受けた私は素直にそれに従おうと決めたのだった。

 《飯盛の伝道学校へ》

兵庫県加西郡の飯盛野教会の岩塚牧師は素晴らしい人だった。人徳という言葉があるが、その言葉にぴったりと言っておこう。

淡路島の鳴門海峡に近いところに福良という町がある。奥まった湾を持っていて、それに沿って町ができている。淡路島では人口から言うと、洲本市、福良町、志筑町の順で福良と志筑の差はわずかだった。

当時の淡路島には22万人以上の人口があった。(2020年では、13万強に減っている)当時はそれほど過疎地ではなかったのだ。

福良の町の中心にあった空き地に大きなテントを張った。これほど大きなテントを見たこともなかったので、数人で立ち上げるのは容易ではなかったが岩塚先生が手慣れていて上手に指導された。

五十ほどの折りたたみいすを配置して訪れる人を待った。キリスト教など全く知らない人たちが果たしてやってくるのだろうかと心配していたが、三十人ほどが集まり、結果的にはそこに一か月間もいた。 

 私ができたことは、集会後に居残って質問してくる人たちにこたえることだった。オルガンがあるわけでもない、静かな集会を、この田舎町でやって伝道になるのだろうかと思いながら過ごした。しかし、私にとってはよい経験になった。これからの目的をもてる時間だったとも言ええる。

 淡路での伝道活動は福良だけで切り上げることになり、岩塚先生と共に飯盛野教会へと向かった。

 飯盛野教会は、兵庫県加西郡の北条高校に近いところにあった。電車では下里という小さな小屋みたいな駅から歩いて行ける場所だった。周辺は、なだらかな

丘が続いていて、淡路では見たこともない風景で夕日が美しい。

 教会の隣が幼稚園になっていて、向いに牧師館と「飯盛野伝道学校」があり、少し西に宣教師館が建っていた。

 夕食時に牧師家族の紹介と伝道学校生の紹介があった。伝道学校生はたったの三人だった。