中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(30)

前回は、白洋舎に入社して浜寺周辺の豪邸などに出入りしていたところ
まで書いた。16歳の時に、宝石ケース制作に携わっていた時にも、心斎橋
筋の有名宝石店に出入りしていたので、当時から丁寧な言葉使いが出来る
ようになっていたので、豪邸への出入りもその点では苦にはならない。
あるお家の奥様に「うちの娘と結婚してくれない?」と真剣に頼まれた時は
驚いた。
その時、すでに結婚相手を決めていたからだった。そうでなければ、その縁談に
乗った?かもしれない・・・・。
 
教会で知り合った女性がいた。2歳年上で離婚経験のある人だった。
初めてのデートの時に、3重の重箱に入った弁当を持って来てくれた。
ただそれだけで、家庭的な女性、やさしい女性、母性愛を満たしてくれる女性と
勘違いしたようだ。
よく働き、健康で、真面目な人だったが、最初に上げた3点の要素とは縁遠い
女性だったが、その時は気がついていない。
 
この女性と結婚することになり、昭和32年3月3日に日本キリスト教団 島の内
教会にて結婚式を行った。私が23歳の時だった。
島の内教会と言えば、大阪には落語の定席が少なく、低迷していたので教会の
地下を開放し「島の内寄席」として長い間、落語の普及に貢献してきたので、現在
大活躍中の落語家たちにはよく知られた場所である。
 
また、なによりも「自殺防止センター」を西原明牧師夫妻が立ち上げて、すばらしい
活動を展開したことでもよく知られている。西原先生は、自殺防止センターを東京にも
作られたが、昨年がんのために亡くなられた。西原先生が東京神学大学で学んでいた
ころ、私は農村伝道神学校に学んでいたのだった。
 
このように縁のある教会で結婚式を挙げた。
当時の牧師は西原勇牧師で、アメリカの大学を二つも終えており、大阪教区の
指導者的立場の方でもあった。奥様の恵(ケイ)先生のことは、以前にこの項の中で
触れたと思うが、16歳当時の私に、毎週「どう?元気でやってる?」と声を掛けて
くれた人である。私は、この人に守られていると感じたものだった。この人を裏切られないと
思ったものだった。青少年と関わる時、私はいつもその自分の自分のことを考えて
接するようにしている。
大したことが出来なくてもよい。聴いてあげるだけでよい。一緒に考えてあげるだけで良いと。
 
結婚した当時は大阪市西区九条に住んでいた。
一階が喫茶店になっており、2階を間貸ししていたのだ。私たちが借りた部屋の大きさは
6畳一間で、押し入れもなく、ただの6畳だけだったので、布団はたたんで部屋の隅に置き、
食べる時は小さな折りたたみ式のちゃぶ台だった。
台所は、階下で大家さん、他の間借り人と一緒に使い、便所も共同だった。
古い話であまり記憶にないが、家内が大家さんちのお茶碗を壊し、それを弁償するお金が
なくて、私の本を何冊か持って電車に乗り(定期券があったから)道頓堀まで行って古本屋
さんに買ってもらったことがある。当時は、古本も高く売れたものだった。本を売った金で
茶碗を買い、ついでに映画館で洋画を観て帰った。のんきなものである。